衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年11月17日    木曜日     第1 回の開示 合計3752回の開示

瑜伽師地論第三十四巻(四十七)

原文:またこのように念う。我れ今においては、諸根のみあり、境界のみあり、それより生ずる諸受のみあり、心のみあり、仮名の我及び我所の法のみあり、見解のみあり、仮立のもののみがここに得られる。これ以外には過ぎたるものも増えたるものもさらに何もない。かくの如く諸蘊のみが得られる。諸蘊の中には常恒不変の主宰者として、我あるいは有情と説かれるものもなく、またここに生者・老者・病者・死者と説かれるものもなく、さらに業を造り種々の果報や異熟を受けると説かれるものもない。これにより諸行はことごとく空なり。我無きが故である。これを無所得行による空行への趣入と名づく。

釈:瑜伽行者はさらにこう考える。現在の私はただ諸根があり、ただ境界があり、ただ根と境の接触から生じる諸受があり、ただ感受する心があり、ただ仮名の我と我所の法があり、ただ知見があり、ただ仮立の法が得られるのみで、これ以外にこれらを超える何ものも存在しない。同様に私はただ五蘊のみが得られ、諸蘊の中には常住不変の主宰者として、我あるいは有情と説かれる実体もなく、また生者・老者・病者・死者と称される実体もなく、ましてや業を造り種々の果報や異熟生を受ける主体も存在しない。この理によって、一切の形成されたものはことごとく空であり、そこに我は存在しない。これを無所得行による空行への入りと称するのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

汚れた意根はなぜ汚れた前六識しか生じないのか

次の記事 次の記事

瑜伽師地論 第三十四巻(四十八)

ページのトップへ戻る