衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年10月28日    金曜日     第1 回の開示 合計3718回の開示

心を壁のごとくすれば、入道できます

問:ある夜、私は眠りの中で禅定に入り、心は明るく澄み渡り、周囲の人や物事がはっきりと分かっているのに、それらが自分とは何の関わりもなく、自分に影響を与えないように感じました。自分は真空の中にいるようで、心中に雑念は一切なく、ただ法義を思惟する一念(具体的な内容は覚えていない)があり、まるで一輪の太陽がぽつんと天上を照らし、一片の雲もないような感覚でした。同時に全身に比類ない軽安と快適さを感じ、禅定の中がこれほどまでに心地よいものだと初めて知りました!目覚めた後もその快適さが残っており、もしこのような禅定があるなら、本当に世間の享楽を貪ることはなくなるでしょう。あの感覚は非常に軽やかで自在であり、世間の五欲の楽しみとは比べものになりません。師匠にお尋ねします:なぜ現実では経験したことのない境界が夢の中で現れるのでしょうか?

答:この夢は禅定の中で参禅する状態であり、定と慧を備え、止観が双運しています。あなたは過去世でこの禅定を修めており、それは未到地定です。意根が前世で経験した記憶があり、現在は心中で憧憬を抱き、再びこの禅定境界を体験したいと願っています。しかし現世の生活が忙しく、修定の因縁が整わないため、意根は仕方なく夢を見て、夢の中で禅定と参禅の喜びを味わっているのです。どうやら意根もまた哀れで無念な存在のようですね。現代社会はあまりに煩雑で、煩わしい生活を断ち切って一心に修道することさえ困難なのです。

夢の中では、意識が清明な無念の状態にあり、明らかではっきりとして、念頭はありません。未到地定の中にあるべきですが、意根が働いて法義を参究する状態にあり、仏法を思量しています。このように仏法を思量してこそ根本的な問題を解決し、悟りを証得できるのです。参禅参究とはまさにこの状態であり、心中に雑念は一切なく、外境が心に入らず、心が銅牆鉄壁のごとく如如不動です。達磨大師が「心が壁のようであれば道に入ることができる」と言われたのはこの意味であり、禅定と思惟がこの程度に達しない限り、悟りを証得することは期待できません。

意根のこのような思量参究の状態は、極めて静かな環境条件においてのみ生起し、継続することができ、深く細やかな極めて深細な法理を参究できます。そのため真の修行者は一切の外縁を断ち切り、絶対的な孤独と寂寞に身を置きます。孤にして等侶無し、修道とは本来孤家寡人の成す大事業であり、騒がしく仲間と集う中で成就できるものではありません。寂寞に耐えられない者は正修の道を歩むことはできません。禅定は煩悩を降伏させ断除し、軽安・喜悦・快楽を得ることができます。修道ほど人を喜ばせるものはなく、禅定を得た者は皆世間法を好まず、心は世間に執着せず、財色名食睡や名利供養を求めず、権勢地位を喜びません。世間法に貪ることは実に不明智な行為です。

ある者が「十数分間雑念なく法義を思惟すれば、悟りを証し明心できる」などと言うのは全くの妄言です。これほど短時間で仏法を思惟しても、深く細やかな思惟は不可能であり、参禅の定慧等持の状態に至ることもできません。例えるなら大きな鍋の湯を沸かすのに一時間必要とする場合、五分や十分で火を止め、翌日また焚き始めることを繰り返せば、一年十年経ってもその湯を沸騰させることはできないでしょう。このように仏法を児戯にし弄ぶ行為の果報は甚だ不善です。もし仏法がこれほど容易に修証できるなら、どうしてこれほど多くの三悪道の衆生が存在するでしょうか?世の人は皆便宜を好みますが、その結果は自分自身を害することになります。一分の耕耘に一分の収穫あり、何かを成し遂げようとするなら、身心を放捨し、努力を惜しまねばなりません。

——生如法師の開示
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