無自覚に現れる念仏の声は、すべて意根から生じるものであり、意根が念仏しているのです。最初は意識が気づきませんが、気づいた後も制御できず、仏号の声に従わざるを得ません。自覚は意識自身の覚りであり、無自覚は意識の覚りではなく、意根の覚り、意根の行為です。この念仏三昧は禅定の境地であり、この定は比較的堅固です。この三昧の境地を借りて、さらに四念処を観行すれば、心も清浄となり、観行が容易になります。
無自覚に念仏の声が現れ、絶え間なく心の中や頭の中に響き渡る、これが念仏三昧です。様々な三昧はすべて意根から発せられます。なぜ意根が三昧を引き起こすことができるのでしょうか。念仏の功夫が未熟な者には念仏三昧は現れず、各種の観行功夫が不足している者にも三昧の境地は現れません。いわゆる功夫の熟達とは、長期間にわたる一つの修行によって意根を染め上げ、意根が教化され成就した結果、自動的かつ自発的に念仏と観行を行い、様々な三昧が現れる状態を指します。各種の三昧の出現は意識によって決定されず、意識の制御を受けません。意識はただ受動的に受け入れるしかなく、受動的に三昧の境地に融合し、三昧と身心の覚受を体得するのです。
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