原文:四名智識。分別染淨。諸差別法。
釈:意根の第四の名称を智識という。一切の善悪是非などの染浄の法を分別し、一切の法の差別相を弁別することができる。『大乗起信論』において意根を智識と説くのは絶対に正しい。作主識として衆生の根本を代表し、衆生の一切を決定する。もし五陰身の作主識にこのような智慧がなければ、五陰には智慧がなく、世間に智慧ある者は存在し得ない。もし意根の慧が劣るとするなら、これは完全に正しい説ではない。具体的に極めて微細な法塵を分別する際には、確かに意根は意識に及ばないため意識を用いるが、一旦意根が微細な法塵を分別する能力を得た時、意識と五識は無用となり、意根自ら直接に六識の機能を代替する。識を捨て根を用いれば、多くの煩雑や障りがなくなり、大神通が顕現する。
原文:五名相続識。恒に作意し、相応して断絶せず。過去の善悪等の業を任持し、失壊せしめず。現未の苦楽等の報を成熟させ、違越せしめず。既に経た事は忽然に憶念し、未だ経ざる事は妄りに分別を生ず。
釈:意根の第五の名称を相続識という。意根が相続識と呼ばれる所以は、その五遍行心所法が永遠に相続して断絶することなく運行するためである。阿頼耶識は意根に随って不断に一切の法を生起し、一切の法を運作する。五陰世間は相続して断絶なく現れ、此の世が滅び後世が生じ、生生やむことなし。かくして一切の善悪・染浄の法は意根に随って不断に現出し、善悪業は断絶せず、善悪果報は失壊しない。また意根は現在未来の苦楽等の果報を成熟させ、因果の軌則に背かせない。意根が生生世世無始劫以来に経験した事柄は、因縁ある場合に忽然に憶念され、未経験の事柄も虚妄に分別される。
馬鳴菩薩は、意根が善悪業を任持して業種を失壊させず、業果報を成熟させると説く。この法義は極めて深遠で意義重大である。六識が造作する身口意行は、第一に種子として阿頼耶識に蔵され、第二に意根によって任持され来世に持ち越される。任持とは負担し背負う意味、業行に責任を負うことである。
何故業行を意根が背負うのか。意根は作主識として五陰身を主宰し、一切の業行の主宰者であり、六識は補助的役割に過ぎない。阿頼耶識は業行の主宰者ではなく、業を造作しない。故に業造作後、一切の業行は意根が責任を負い業果を背負う。六識は業行を背負えず、命終すれば滅び業種を来世に持ち越せない。一切の法は意根が主宰して造作する故、業行の善悪は意根の善悪を体現する。意根の善悪心所法は全て具足し、業種と相応して後世に継続する。故に修行とは意根を修め、意根を熏習し改変することである。
意根はまた善悪苦楽の業報を成熟させ因果に相応する。阿頼耶識は成熟した業種を現行するが、業報を成熟させるのは意根の働きである。業縁具足時に意根が業を随身すれば外縁現前して業報が出現する。
『起信論』が意根に憶念作用があると説くのは極めて正しい。意根は心であり、一切の法を経験している故、当然憶念を生じ、意識に過去を追憶させる。故に意根には念心所が存在し、一切の法を憶念する。一切の法は主人たる意根が憶念し処理を必要とする時、助手である六識を喚起する。助手は主人が必要とする時のみ現れる。
意根の五名称の内包する法義は深奥で、従来の誤った認識を覆す。これは唯識種智の領域に属し、唯識の証量なき者が現量観察することは不可能である。歴史上初地と認証された菩薩は龍樹・無著・馬鳴菩薩等がおり、阿難も初地に入ったと伝わる。しかし唯識法を伝えるには十分な種智が必要で、初地入り直後は観察力が不十分なため伝法できない。
その他唯識論を著した者に初地の証量を証明する資料はなく、論書には瑕疵が存在する。馬鳴菩薩の『大乗起信論』は証量高く、実叉難陀の訳も精確で信頼に値する唯識論書である。
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