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日常法話

2022年10月19日    水曜日     第1開示 合計3711開示

意根の五つの名称の意味(一)

大乗起信論原文:生滅因縁とは、諸の衆生が心意識に依って転ずることをいう。この義はいかに。阿頼耶識に依って、無明の不覚が起こり、能く見、能く現じ、能く境界を取って、相続して分別する。これを意と名づく。

釈:一切の法の生と滅は、全て因縁によって現起するものである。これらの因縁には、阿頼耶識・意根・意識という三つの能変識が含まれる。その中で意根は一切の法が現起する最も重要な因縁であり、衆生は皆意根に依って流転している。阿頼耶識が一切の生滅法を生じさせる直接の因ではあるが、それは意根によって促されるものである。意根という因と縁がなければ、阿頼耶識は如何なる法も生じない。意根は阿頼耶識に依り、自心の無明に随って、阿頼耶識が生じる一切の境界法を見、その後心の中で阿頼耶識が生じる一切の境界法を現じ、阿頼耶識が生じる一切の境界法を取り執って、絶え間なく相続して分別し、自らにこのような無明があることを少しも覚らない。このような心体を意根と名づける。

原文:この意にはまた五種の異名がある。一つには業識と名づく。無明の力によって、不覚のまま心が動くことをいう。

釈:このような意根には五種の異なる名前がある。最初の名前を業識といい、意根は業を造る主人である。無明があり、かつ自らの無明を覚らないため、無明の力が意根の心を動かして意を起こさせる。意を起こした後、続いて触・受・想・思が現れ、意根の心が決定した後、六識の身口意の業行が造作され、続いて業種を残し、後世に報いを受けるに至る。それによって生死が相続して絶えない。それゆえ意根は業識であり、無明の業力に相応し、業種に相応し、生死に相応する。もちろん修行によって空に相応し、清浄に相応し、寂静に相応し、解脱に相応するようになる。したがって修行とは、意根を修め、我見を断ち、心を明らかにして本性を見、識を転じて智とし、唯識の種智を具え、最後に仏となることである。

意根が業力に相応し、業種に相応するならば、我見を断った清浄な業は意根によって任持され、心を明らかにして本性を見た清浄な業も意根によって任持される。意根が我見を断ち心を明らかにして本性を見て初めて、このような清浄な業種を任持することができる。そうでなければ意根は任持できず、後世にはそのような清浄な果報はない。同様に、悪業を造る業種も意根によって任持され、意根の心が悪でなければ悪業を造作できず、悪業の種子を後世まで任持できない。したがって意根は一切の煩悩心所法を具足し、また一切の善心所法も具足している。

原文:二つには転識と名づく。動く心に依って、能く境相を見ることをいう。

釈:意根の二つ目の名前を転識といい、転とは流転の意味であり、また運転の意味でもある。意根は無明の力に頼って、法を阿頼耶識から流転させ運転し出すことができる。意根の心が動くと、阿頼耶識はそれに従って境界を生じ、意根は境界相を見る。心がさらに動くと、六識が生じて業行を造作し、五陰の作用が現行し、後世の生死が絶えなくなる。境界と五陰は全て意根の心の動きに随って現れ、生死も意根の心の動きに随って現れる。それゆえ意根は一切の法を転動させるスイッチであり、意根こそが転識である。

原文:三つには現識と名づく。一切の諸境界相を現ずることをいう。あたかも明鏡が衆色の像を現ずるがごとし。現識もまたしかり。その五境のごとく、対至すれば即ち現じ、前後なく、功力によらない。

釈:意根の三つ目の名前を現識といい、この現は呈現の意味である。意根が一切の法を見た後、一切の法を現出させ、一切の法は意根の心の中で影像を呈現する。意根は阿頼耶識に依り、阿頼耶識が何の境界を変現するかに従って、意根はその境界を了別でき、心中にその境界を現出できる。あたかも明鏡が一切の境界相を現ずるがごとくである。例えば五塵境界像は、意根が触れるとすぐに五塵境界像を現出する。阿頼耶識が境界を生じる時、意根はほとんど同時に前後の順序なく心中に境界を現出し、また意図的に加工する必要もない。

なぜ五塵境界像といい、六塵境界像あるいは法塵境界像と言わないのか。ここでの五塵は実質的に法塵を含む六塵を指し、五塵がそれぞれを代表している。それぞれに独自の法塵があるが、これは省略表現である。そうでなければ、色塵と色塵上の法塵、声塵と声塵上の法塵、香塵と香塵上の法塵、味塵と味塵上の法塵、触塵と触塵上の法塵と言わなければならず、非常に煩雑になる。それゆえ簡略して五塵と言うのである。

一般的に、意根が法塵に触れて意識を生じると言われるが、五識はどのように生起するのか。ある者は、五識は五根が五塵に触れて生じると言うかもしれない。しかし五根は色法であり、心法ではなく識心ではない。どうして能動的に五塵と触れて識心の能動性を持つことができるのか。実質的に五根が五塵に触れるのは、やはり意根が主導して促すものである。意根が主導して五根に五塵に触れさせ五識を生じさせ、同時に法塵に触れて意識を生じさせる。意根が主導である以上、五塵境界像も意根が触れ、触れた後は完全な六塵像を現出する。選択を下した後、六識が生じて六塵境界像を了別し処理する。六識は一部の六塵境界を了別し、他の一部を了別しない。これが意根の起こす選択と主導作用である。

——生如法師の開示
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