衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年10月18日    火曜日     第3 回の開示 合計3710回の開示

禅定において意根の思量を如何に働かせるか

禅定において意識の思惟を用いず、意根の思量を用いるこの修行は非常に深遠であり、一般的には達成が困難である。深い禅定の基盤と一定の観行の修練が必要とされる。禅定と観行がある程度まで進むと、意識の思惟から意根の思量への転換が可能となる。意識の思惟は比較的浅く表面に浮かんでおり、通常は誰もが観察できる。例えば、今この瞬間の心にどのような念があるかを内省すれば、自分が何を考え、何を思索し、何を企図しているかが分かる。これらの念は一般的に表面化しており、全て意識の思惟である。

同時に、背後には意根の支持と主導作用が存在する。定力と智慧が不足していると、これを観察しにくく、自心の真の思いを見極められない。心を極めて微細に修めると、意識が思惟する際に背後で主導的な力を発揮する存在を観察できるようになる。その力と思考の流れが意根のものである。意識の背後にある意根の力を発見し、意根を捉えられる段階に至ったら、徐々に意識の思惟作用を薄れさせ、一定の水準まで達した後で意識の念を捨て去る必要がある。捨て去った後も心に念を保持し、意根の思考活動を維持し、完全な無念無想に陥らないようにする。これは容易なことではない。

禅定においては、心の奥底にある力を発見するよう努めなければならない。それは実際に念を持ち、思考活動を有し、思索可能なものであり、まさに意根の思量活動である。発見後はその思量活動を保持しつづけ、消滅させず、意識が思惟する法義を意根に委ね、継続的に独力で思量させる。これは比較的深い参究の状態に属し、参禅とはまさにこのような修練である。五蘊非我を思量する際にもこのような工夫が用いられる。これにより意根の思量が活性化され、この思考様式、このような修練を意根の思量と呼ぶ。

これを達成するには深遠な禅定が不可欠である。優れた禅定の修練により、粗大な妄念を捨て去り、やがては微細な妄念までも捨て去る必要がある。妄念とは他の重要でない法に関する思惟、つまり雑念や多念を指す。これらの念は正念にとって干渉要因となるため全て除去し、意識が思惟すべき法のみを残す。その後、意識の思惟も捨て去り、意根にその法を思量させる。意識と意根が思考の役割を交替する段階である。この時点で意識は依然として存在し、ごく軽微な了別作用を担うが、深い思惟・分析・推論を行わず、意根に深く思量させる。言語・文字・音声を伴わないこの思量作用は、禅定と智慧が不足している状態では観察しにくい。

意根のこの思量機能は、心の奥底の考えとも呼ばれる。各人の心の考えは二種類に分けられる:表面に浮かぶ浅層の意識の考えと、深層に潜む意根の考えである。後者が真の考えを表す。例えば他者に今何をするつもりだと語る場合、実際にはその考えがなく、発言は形式的なもので、心の内には別の声と考えが存在する。その考えは比較的秘匿され、他者に知られたくないため、意識の言語で覆い隠すか、注意を逸らすのである。

絶えず自らの意根の内面を内省し、意根の心を捉え、本来意識が執着し思考していた法を意根に転移させる。これにより意根が常時その法を念じるようになり、意根の思量性が顕現する。意根が受容すれば薫習が成功し、受容しなければ不成功である。修練が十分に至って初めて成功する。

日常生活において我々は皆、意根とその思量作用を用いているが、観察できず、区別もつかず、総括も行わないため、意識の思惟か意根の思量かを判別できない。この問題を解明するには禅定の修練と観行の智慧を増す必要がある。禅定が深まって初めて心が微細になり、意識と意根の差異を発見し、心の内側の声と表面の声を区別できるようになる。これにより意根思量の状態を理解し、意根の思量性を捉え、次第に運用できるようになる。

この境地に至るには禅定修行を強化し、智慧の弁別力を高め、煩悩を調伏し、妄念を減らし、心を仏法に縁させ世俗法に攀縁させない必要がある。禅定が深まるほど心は集中し、妄念は減少し、遂には妄念を捨て去ることが可能となる。心が微細になり智慧が深まると、意根の機能作用が十分に発揮される。

色身が調伏され定慧等持の境地に達すると、直接意根の思量を用いて問題を解決できる。ある法に対する疑情が強い場合、初めは意識でその法を心に留め、次第に意識の作用を弱め、意根にその法を留めさせる。これにより比較的深い禅定に入り、意根が深くその法を思量する。意根が集中して思量するほど禅定は深まり、禅定が深まるほど意根の思量は集中・深化・精緻化し、遂に問題を解明すると同時に三昧の境地に入る。法喜に満たされ、身心が軽安となり、禅悦が現れる。三昧とは定慧等持の境地であり、この境地が現れると一日中の精神状態が極めて良好となり、身心共に軽安となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論第三十四巻(二十四)

次の記事 次の記事

意根の五つの名称の意味(一)

ページのトップへ戻る