大乗起信論原文:生滅因縁とは、諸々の衆生が心・意・識によって転ずることをいう。この義はいかに。阿頼耶識に依って、無明の不覚が起こり、能く見、能く現じ、能く境界を取り、分別を相続する。これを意と名づけて説く。
釈:一切の法の生滅は、因縁によって現れるものである。これらの因縁には阿頼耶識・意根・意識という三つの能変識が含まれ、その中で意根は一切の法が現れる最も重要な因縁である。衆生は皆、意根によって流転している。阿頼耶識が一切の生滅法を生じる直接の因ではあるが、これは意根の働きによって成される。意根という因縁がなければ、阿頼耶識は何らの法も生じない。意根は阿頼耶識に依り、自心の無明に随って阿頼耶識が生じる一切の境界法を見、さらに心中に阿頼耶識が生じる一切の境界法を現じ、阿頼耶識が生じる一切の境界法を取り執り、絶え間なく相続して分別し、自らにこのような無明があることを少しも覚らない。このような心体を意根と称する。
原文:この意にはさらに五種の異名がある。第一を業識と名づく。無明の力によって、不覚のまま心が動くことをいう。
釈:この意根には五つの異なる名称がある。第一の名称を業識という。意根は業を造る主体である。無明があり、かつ自らの無明を覚らないため、無明の力が意根の心を動かして意を起こさせる。意が起こった後、触・受・想・思が現れ、意根の心が決定すると、六識の身口意の業行が造られ、業種を残して後世の報いを受け、生死が相続して絶えない。故に意根を業識と称し、無明の業力と相応し、業種と相応し、生死と相応する。ただし修行によって空と相応し、清浄と相応し、寂静と相応し、解脱と相応するようになる。故に修行とは意根を修め、我見を断ち、心を明らかにして本性を見、識を転じて智と成し、唯識の種智を具え、最終的に仏と成るのである。
意根が業力と相応し、業種と相応するならば、我見を断つ清浄業は意根によって保持され、心を明らかにし本性を見る清浄業も意根によって保持される。意根が我見を断ち本性を見明かして初めて、このような清浄業種を保持できる。そうでなければ意根は保持できず、後世にこのような清浄果報は現れない。同様に、悪業の業種も意根によって保持される。意根が悪であれば悪業を造り、悪業の種子を後世まで保持する。故に意根は一切の煩悩心所法を具え、また一切の善心所法をも具える。
原文:第二を転識と名づく。動く心に依って、能く境相を見ることをいう。
釈:意根の第二の名称を転識という。転とは流転の義、また運転の義である。意根は無明の力によって、法を阿頼耶識から流転させ現出させる。意根の心が動くと、阿頼耶識はこれに随って境界を生じ、意根は境界相を見る。心がさらに動けば六識が生じて業行を造り、五蘊の作用が現行し、後世の生死が絶えなくなる。境界と五蘊は皆、意根の心の動きに随って現れ、生死もまた意根の心の動きに随って現れる。故に意根は一切の法を転動させる開閉器であり、意根こそが転識である。
原文:第三を現識と名づく。一切の諸境界相を現じることをいう。あたかも明鏡が衆色像を現じるが如し。現識もまた然り。五境が対至すれば即ち現じ、前後なく、功力によらない。
釈:意根の第三の名称を現識という。この「現」は顕現の義である。意根が一切の法を見ると、一切の法を現じ、一切の法が意根の心中に影像を現じる。意根は阿頼耶識に依り、阿頼耶識がどのような境界を変現しようとも、意根はその境界を了別し、心中にその境界を現じることができる。あたかも明鏡が様々な色像を映し出すように。例えば五塵境界像に対し、意根が触れるやいなや即ち五塵境界像を現じる。阿頼耶識が境界を生じる時、意根はほとんど同時に前後なく心中に境界を現じ、故意の加工を必要としない。
なぜ五塵境界像と言い、六塵境界像や法塵境界像と言わないのか。ここでいう五塵は実質的に法塵を含む六塵を指し、五塵を代表させた略称である。さもなければ色塵とその法塵、声塵とその法塵、香塵とその法塵、味塵とその法塵、触塵とその法塵と逐一述べるのは煩雑であるため、簡略に五塵と称するのである。
一般に意根が法塵に触れて意識を生じるとされるが、五識はどのように生起するのか。ある者は五識は五根が五塵に触れて生じると言うかもしれない。しかし五根は色法であって心法ではなく、識心ではない。どうして自ら能動的に五塵と触れ合えるのか。実質的に五根が五塵に触れるのも、意根が主導して成されるのである。意根が五根を主導して五塵に触れさせ五識を生じさせると同時に、法塵に触れて意識を生じさせる。意根が主導する以上、五塵境界像に対しても意根は触れ、触れた後は完全な六塵像を現じる。選択を為した後、六識を生じて六塵境界像を了別し処理する。六識はある六塵境界は了別し、他の六塵境界は了別しない。これが意根の為す選択と主導作用である。
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