衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年10月04日    火曜日     第1 回の開示 合計3694回の開示

親証と実証とは何か

善男子よ。何が我相であるか。それはすべての衆生の心が証得するものである。善男子よ。例えば人がいるとしよう。全身の骨格が調和し、突然我が身を忘れる。四肢が緩やかに弛緩し、養生の方法を離れる。微かに針や灸を加えれば、我の存在を知る。故に証取することによって、初めて我の本体が現れるのである。

釈:仏は説かれた。善男子よ、何が我相か。我相とは一切の衆生の心が体験的に証得するものである。例えば人が全身の調和が取れ極めて快適な時、突然身体の存在を忘れる。四肢が完全に弛緩し、身心が静寂の極みに達し、身体の在り処さえわからなくなる。この時微かに針を刺せば、心は我の存在を知る。それ故に我を証得し、我という観念が生じるのである。

これは身を亡失する境地であり、身を亡した後に我を証知する過程である。身体を証知する時、同時に我を証知する。身体が我であり、覚知が我であり、五蘊が我である。我の存在を証得した後、我見が現れる。ここには身体の気脈に関する事柄が関わっており、気脈と心の空性、我見断絶の間には一定の関連があることを示している。気脈が通達した後、身体に明らかな覚知がなくなり、この時初めて心が空となり、身を亡じるのである。身を亡した後に再び覚知が生じれば、身体・覚知・我の存在を現前に実証することになる。

衆生の心が証得する我相とはどのようなものか。心が体得したもの、自ら体験したもの、現前に観察したもの、現量で感知した身体・覚知・五蘊である。これを真実に体験・感知できると感じる故、この身体こそ我であると確信し、覚知するものが我であると信じ、能所を生じて我相が現れるのである。

仏は例を挙げて衆生の心中の我相を説明される。人が全身内外ことごとく極めて快適で、気脈が何の妨げもなく円滑に運行する時、身体を感知せず、身体の存在を忘れる。つまり能覚と所覚が共に存在しなくなる。四肢が完全に弛緩し、いささかの意念も加わらず、心が四肢に注意を向けず、四肢の存在を忘れ、現在の状況・方位・姿勢(座臥の別や四肢躯幹の状態)を知覚しなくなる。これを身を亡す・身を忘ると言う。身を亡し忘れる時、心には所覚の身もなく、身を覚える能覚もない。能所共に空である。

心が色身の我を忘れ、明らかな覚知もない状態で、誰かが微かに針を刺せば、その人は直ちに感知し我の存在を知る。色蘊と受蘊の我相が現れる。これを方便的に我を実証する我相と言う。無我を実証する場合も同様に、自ら体験し直接証得しなければならない。思惟の方法で知るのでも、推論・推測・分析・想像などの意識作用で解き明かすのでもない。身体を実感する如く、実際に現量で無我を証得すべきである。実証とは何か、今こそ明らかではなかろうか。この基準で測れば、この世に無我を実証する者は果たして何人いるか。自らが如何に我を実証しているかを深く観察し、その方法で無我を実証すべきである。両者の原理は全く同一であり、何らの差異もないのである。

——生如法師の開示
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