円覚経原文:善男子よ。いかにして我相というや。これすなわち諸の衆生の心の証する所の者なり。善男子よ。たとえばある人ありて、百骸調適し、忽ちに我が身を忘る。四肢弦緩し、摂養方に乖く。微かに針艾を加うれば、すなわち我のあることを知る。ここをもって証取すれば、方に我が体を現ず。
釈:仏は説かれた。善男子よ、何が我相か。我相とは一切の衆生の心が証得するものである。善男子よ。たとえばある人が全身の気脈が調和し快適で、忽然として我が身体の存在を忘れる。四肢は非常に弛緩し、身心は静寂極まり、身体の置かれている方位を知らない。この時、軽く針で身体を刺せば、心は我が存在を知る。よって我を証得し、我という観念が生じるのである。
これは身を忘れる境地であり、身を忘れた後に我を証知するのである。身体を証知すると同時に、我をも証知する。身体が我であり、覚知が我であり、五蘊が我である。我が存在を証得した後、我見が現れる。ここには身体の気脈に関する事柄が関わっており、気脈と心の空(くう)、および我見断絶との間には一定の関連があることを示す。気脈が通達した後、身体には明らかな覚知がなくなり、この時に初めて心が空となり、よって身を忘れるに至る。身を忘れた後、再び覚知が生じれば、現前に実々として身体・覚知・我の存在を証得するのである。
衆生の心が証得する我相とはどのようなものか。心が体得したもの、自ら体験したもの、自ら感じたもの、現前に観察したもの、現量で感知した身体・覚知・五蘊である。これを実に体験し感知できると感じるがゆえに、この身体こそが我であると確信し、覚知するものが我であると信じる。能(主体)と所(対象)があり、よって我相が現れるのである。
仏は例えを挙げて、衆生の心中にある我相が何かを説明される。ある人が全身内外ことごとく非常に快適で、身体の気脈が滞りなく運行し、一点の妨げもない時、もはや身体を感知せず、身体があることを忘れる。つまり能覚と所覚が共に存在しなくなる。この時、四肢は非常に弛緩し、一点の意念も加えず、故意に締めたり動かしたりしないため、心は四肢に注意を向けず、四肢があることを忘れ、自分が今どの境地にいるか、現在の状況がどうか、どの方位にいるか、横になっているのか座っているのか、四肢や胴体がどの姿勢かもわからなくなる。これを身を忘れる(亡身忘身)という。身を忘れるとは、心に所覚としての身がなく、能覚として身を覚える覚もない状態、能所俱空(のうしょくう)である。
心が色身の我を忘れ、明らかな覚知もない時、誰かがわずかに、軽く針でその身体を刺せば、この人は直ちに感知し、我が存在を知る。色蘊と受蘊の我相が現れるのである。これを方便的に「我ありを実証する我相」、つまり「我ありを実証する」と説く。我なし(無我)の実証も同様に、このように自ら体験し、自ら証知する必要があり、思惟の方法で知るものではなく、推理・推測・分析・想像など意識の機能作用で解き明かすものではない。あたかも身体が実在することを実際に感知するのと同じく、無我を実際に現量として実証しなければならない。何をもって実証というか、皆様は今はっきり理解されたであろうか?この基準に照らせば、この世に何人、無我を実証できる者がいるだろうか?よく自らの心中でいかに我ありを実証しているかを体得し、その方法で改めて無我を実証せよ。両者の原理は同じであり、何ら違いはないのである。
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