衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年08月05日    金曜日     第1 回の開示 合計3663回の開示

四正勤の修行(八)

瑜伽師地論第二十九巻(八)

原文:かくの如く四正断を広く弁じ已りて。復た云何くんぞ此の中の略義を知らんや。謂はくは黒白の品を捨取する事の中に於けるを顕示する為なり。増上の意楽円満なること。及び加行円満なることなり。是の故に四種の正断を宣説す。当に知るべし此の中に。欲を生ずるに由るが故に。増上の意楽円満なり。自ら策励し。勤精進を発し。心を策し心を持つが故に。加行円満なり。

釈:かくの如く広く四正断を論弁した後、如何にして四正断の大略要義を知るべきか。四正断の大略要義とは、善悪諸品の取捨過程において、増上の意楽が円満となり、悪を断じ善を増す加行も円満となったことを示すものである。故に四正断を説くべきである。汝ら当に知るべし、四正断の修習過程においては、既に悪を断ち善を増したいという欲求が心に生じたが故に、増上の意楽が円満となる。自心を自ら策励し、進んで勤勉なる精進心を発し、絶えず其の心を策励し自心を加持するが故に、加行が円満となるのである。

四正断に至る以前においては、四正勤の修習に対し未だ強き欲求が生起せず、故に増上の意楽は未だ円満ならず、四種の正断は現れず、自らを策励激励する力は未だ強からず、心を鞭撻し駆策する力度も足りない為、四種の正断は現れない。意楽と策励が共に円満具足するに至って初めて四正断が現れ、此時四正勤の修習は完了するのである。

原文:瑜伽師を修むる者は、唯だ爾所の正に作すべき事有り。謂はくは断滅すべき所断事の為め、及び得るべき所得事を獲得せんが為めに、先ず当に希願楽欲を生起すべし。諸纏を断ぜんが為めに、復た時に随ひ正しく勤めて止挙捨相を修習すべし。諸纏及び随眠を断ぜんが為めに、更に対治善法を修集すべし。現に此の如く一切の所作を為さんが為めに、四正勝及び四正断を説く。是れを略義と名づく。

釈:瑜伽を行ずる者は、唯だ此等の法こそが其の為すべき事である。断ずべき悪を断滅し、得るべき善を獲得せんが為、先ず希求・意願・楽欲を生起すべきである。諸煩悩の纏縛を断ずる為、常に正しく精勤して止相(禅定)・挙相(自心を激励)・捨相(悪不善法を捨棄)を修習すべきである。諸纏縛及び随眠を断ずる為、更に対治善法を修集すべきである。此等一切の為すべき事を顕現せしめる為、四正勝及び四正断を説くのである。此れを四正断の略義と称する。

以上の四正勤の法について、或る者は修習を好まず、此等の法を軽視し、基礎的で小乗の法であると考え、時間を費やす必要無しとし、全ての精力を大乗法の熏習に用いようとする。然るに四正勤を修せざれば、心は善に転ぜず、徳は具足せず、徳が相応しなければ大乗法を証得できず、全ての熏習は結局理論のみに終わる。理論は一定の因縁条件下において忘却消失し得るものであり、仮に忘却せざるも、理論は畢竟理論に過ぎず実用価値無く、命終には悪不善法の為に堕落し、徒らに理論を有するも生死を救わず。四正断を修習し粗重なる煩悩の纏縛を断除した後、五陰の徳相が顕現し、徳が具足して初めて大徳菩薩・大徳聖僧となる資格を具え、大衆を統率し共に仏道を成就する資格を得るのである。

——生如法師の開示
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