衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年08月17日    水曜日     第1開示 合計3664開示

三昧は修法成就の証です

問:日観を修めるには、一日24時間映像が消えない状態にまで修めなければ、次第に後の観行に進むことはできないのでしょうか?

答:『観無量寿経』の十六観における各観は、三昧が現れた後に初めて観行が完成したと見なされ、その後次の観行に進むことができます。第一観である日観では三昧を修め出さねばならず、落日三昧において心の中の落日相が途切れることなく現前し続け、身心ともに禅定の状態にあり、煩悩や雑念がなく、睡眠時以外は常に定中にある状態に至って初めて日観三昧が修了し、第二観に移行できます。いかなる法を修め、いかなる道を証する場合でも、禅定や智慧を含め、三昧が現れなければ修得成功とは見なされず、法を証し道を証したとは認められません。三昧が現れる前後の期間は、睡眠も深くならず、雑夢や乱夢がなく、内心にも一定の清明さが保たれ、睡眠は少なく軽く、昏沈することはありません。軽度の睡眠には映像があるべきですが、深い睡眠では消失します。

日観は当グループで三年ほど修めてきましたか? 一人として修成した者を見ません。これは最も簡単で容易な観行であるにもかかわらず、修行がそれほど簡単なことではないということがわかります。特に我見を断つことや明心見性といった大智慧の成就は、なおさら容易なことではありません。『観無量寿経』の十六観は、第三観を成就して初めて命終時に極楽往生が保証され、第七観まで修めて初めて明心開悟が可能となります。三年間で第一観を修成した者さえいない状況で、第三観や第七観は果たしていつの年か月かになって成就できるのでしょうか? 修行はそれほど容易なものではなく、前世で既に修習し、かつ成就者であった場合に限り、今世では多少容易になるのです。

——生如法師の開示
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