問:我見を断ってからでなければ、参禅によって真心を悟ることはできないのでしょうか?ある人は我見を断つことについてほとんど認識がなく、直接参禅しようとしています。もし参究が成功して真心を悟った場合、自然と世の中の全てが無常であると見えるようになるのでしょうか?真実の一つを知れば、他のものは自然に虚妄だと分かるからです。
答:前世の因縁が良かった一部の人々は、空や無我について一定の認識と体得があり、直接参禅することができます。参禅の過程でまず我見を断ち、その後で明心に至ります。大多数の人は基盤が弱く、自我への執着が強すぎるため、参禅時の障りが重く、真に明心して悟ることは困難です。おそらくまず我見を断ってから参禅する必要があります。我見を断たずに直接参禅すると、最良の結果として解悟に至りますが、それは果実が美しく香るように見えても実用的価値は大きくありません。
解悟の状態では、二つの自我が並列して存在し、矛盾しないため、かえって我見と煩悩を増長させます。解悟の「解」は推理に相当し、実証ではないため我見を断つことができず、真心を別の自我と錯覚し、修行への妨げが甚大となります。従って我見が強い人は、まず我見を断つことに注力し、我見を断って障りがなくなって初めて、真心を証得しやすくなります。
大多数の人は解悟さえしておらず、解悟も容易ではありません。真に解悟した場合、禅定を修めて、禅定中に意根で再び参禅するか、あるいは自らの理解を検証すれば、因縁の時節が至った時に証悟へ転じます。前提条件として戒定慧を円満に修め、三十七道品と菩薩の六波羅蜜を具える必要があります。真の解悟を得た時点で大方向は明確になり、修行は速やかに進みます。ただし真に解悟できる者が極めて少なく、多くは理解のみで悟らない状態であることが懸念されます。
理論的な知見を構築することは、実際に修行するよりもはるかに容易です。もし知見を他から学んだ場合、両者の難易差は1対10以上になります。もし知見を自ら修行しながら模索した場合、その難易差は1対10以下になります。修行時は主に自らの定慧に依拠し、模索する過程が実践そのものであり、方法論を見出せた時、功夫も熟達し、見道も速やかに訪れます。
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