答:ごく一部の人は前世からの基礎が比較的良く、空と無我に対して一定の認識と体悟を持っているので、直接禅を参じることができ、参禅の過程でまず我見を断ち、それからでなければ明心できません。大多数の人は基礎が薄弱で、内心の着有と着我があまりにも重く、参禅時の遮障があまりにも重いため、真に明心開悟することができず、恐らくみな先に我見を断ってから禅を参じなければなりません。我見を断らずに直接禅を参じた場合、最良の結果は解悟であり、見かけの果実はなかなか良く香りも良いのですが、実用価値はあまりありません。
解悟の時には、二つの我が平行して並列に存在しており、衝突しないため、かえって我見と煩悩を増加させてしまいます。解悟の「解」は推理に相当し、実証ではないため、我見を断つことはできず、しかも真心はもう一つの我であると感じてしまい、これは修行に対する障害が非常に大きいのです。ですから我見が比較的重い人は、やはりまず我見を断つことに目を向け、我見を断って遮障がなくなってこそ、真心を証得しやすくなります。
大多数の人は解悟ではなく、解悟も容易なことではありません。もし真に解悟したなら、ただ禅定を加えて修めば、禅定の中で意根を用いて改めて禅を参じたり、あるいは自分の解いたところを検証したりすることで、因縁時節が到来した時に、証悟に変わることもあります。前提条件として、戒定慧のすべてを円満に修めなければならず、三十七道品と菩薩の六度を含みます。真に解悟した時には、大方向はすでに明確になっているので、修行は速くなります。恐ろしいのは、真に解悟できる人はほとんどおらず、みな解するだけで悟らないことです。
理論的な知見の構築は、実際の用功に比べて、はるかに容易です。もし知見が他の場所から学んで得たものであれば、両者の難易度は一対十以上になります。もし知見が自分で修めながら模索して導き出したものであれば、両者の難易度は一対十以下になります。修行は主に自分の定慧によって修めるものであり、模索している時こそ実際に用功している時であり、方法の筋道を見出した時には、功夫も熟しており、見道も速くなるのです。
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