衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月01日    金曜日     第2 回の開示 合計1224回の開示

布施は福徳を積み道業を進めるのみならず、仏恩に報いることでもあります

すべての人の我執は非常に重いものです。仏法を学ぶことによって、世間の真実の相を認識した後、我執は徐々に消えていきます。前世において仏法を学んだ期間が長い人もいれば短い人もおり、衆生の根機には違いがあります。しかし、どのような根機であれ、仏法に入った者は他の衆生より先に覚りを開くべき存在であり、喜ぶべきです。私たちの後方には、数え切れないほどの衆生がいて、人間の身さえ得られず、ましてや仏法に触れる機会もなく、苦悩は果てしなく続いています。私たちが仏となる時、彼らがどのような生存形態の衆生であるかさえ分かりません。したがって、私たち仏教徒は慈悲の心を起こすべきです。自分自身を憐れむだけでなく、衆生をも憐れむべきです。もし衆生を救済する心を発起できれば、自己の修行は急速に進むでしょう。

できる限り多くの福徳を修めなさい。福徳が増えれば、道業は進歩し、智慧は成長します。多くの人が福を修めることを重視せず、長年仏法を学んでも仏法的知見が浅薄で、智慧が全く進歩しない根本的な問題は、福徳が不足していることにあります。積極的に福を修める人々は急速に進歩し、智慧も速やかに増進します。福を修めることが自分に有利か、修めないことが有利か、どうかよく考えてみてください。

仏は福慧両足尊であり、成仏は福徳と智慧の両方を強調します。この二者は相互に補完し合い、欠くことができません。福徳と智慧は双子の兄弟のようなもので、分離できません。誰もが修行がある程度進んだ時、福徳が不足すると、往々にして特定の段階で停滞し、前進できなくなり、場合によっては後退する人もいます。これは私が多くの仏教徒を観察して得た所見です。

仏法の修学には次第があります。相を破る布施、相に住しない布施、布施の果報に執着しないこと——これらの凡夫には到底できません。もし布施の果報に執着することを恐れ、相に執着する布施を恐れて布施をしないなら、永遠に福のない凡夫でいることになります。明心した後、一定の果位に修めて初めて、徐々に無相の布施ができるようになります。凡夫の段階では、布施には必ず相への執着が伴います。しかし相に執着しても構いません。布施は結局福を得ることができ、福徳があれば道を得られる——これが最も重要なのです。

私たちが大乗の法を修学する際、阿羅漢のように自分だけを顧みて、衆生の苦しみを考慮しないようではいけません。阿羅漢たちは自了漢です。自分自身の苦しみを断つ能力はあっても、仏から焦げた芽と腐った種と呵責され、無為の坑に堕ち、仏法の根苗を生長させません。もしすべてが阿羅漢のようであれば、この世界の衆生を誰が救うのでしょうか。私たちは皆、仏菩薩によって救済されています。阿羅漢が法を伝えず、菩薩も法を伝えなければ、衆生は永遠に生死の苦海の中にあり、解脱の時は訪れません。私たちが受ける一滴の恩恵も、全て仏菩薩から与えられたものです。衆生が六道を輪廻する中で、菩薩の救済を頼りにしています。もし菩薩が法を伝え人を度することがなければ、私たちが仏法に出会う日は決して来なかったでしょう。私たちは皆このような事態を望んでいません。ならば、心を他の衆生の苦しみに重ね、常に他の衆生を助け、苦悩を解消する方法を考えるべきです。これこそが、仏菩薩からのご加護に報いる道であり、自らを救う仏法に出会った意味を果たすものであり、仏菩薩の恩徳に報いることにもなるのです。

——生如法師の開示
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