瑜伽師地論第三十四巻の原文:能知の智と所知の境が和合して乖離がなく、現前に観察することを以て、故に現観と名づく。譬えばクシャトリヤ(王族)とクシャトリヤが和合して乖離がないように、現前に観察することを現観と名づく。ブラーフマナ(司祭階級)等もまた然るべきことを知るべし。
釈:真諦の法を知る智慧と、知られるべき四聖諦の理が和合し、両者に乖離がないような現前の観察を、現観と称する。例えばクシャトリヤ同士が和合して矛盾せず、現前に観察することを現観とするように、ブラーフマナを観察する場合も同様である。
能知の智とは、法を見、法を知り、法を証する第六・第七識を指し、真実を観察する智慧を具える。所知の境とは、第六・第七識が観察する理法、即ち四聖諦の理や般若の法などを指す。智と境が和合して矛盾なく、このような現前の観察を現観と称する。
和合して乖離がないとは、第六・第七識の智慧の境界、あるいは智慧の次元において、智慧が正しく法を観察認知するに足るため、理法と矛盾せず、かつ現前の観察であって、推測や推理、分析によるものではない。現前に存在する法を、事実のままに現量で観察認知することを現観という。現観の時、法を証得し、法智と類智を獲得する。現観でないものには法智も類智もなく、果証もない。
如何にして法に対する現前の観察と非現前の観察を区別するか。例えば苦諦を観察する時、五蘊が苦であると感じ、現前に五蘊の苦を観察した後、内心の苦に対する認識が深まり、時処を超えて心心念念に五蘊の苦を感知し、絶えず苦を逃れ滅ぼそうとする心が生じ、無間作意が形成される状態を指す。無間作意とは、意根に生じた作意であり、単に意識表面に留まらない現前観察の結果である。
非現前の観察による苦は、無間作意を形成せず断続的で、苦を忘れ楽を求め、出離心が弱く覚悟が低く、行動力に欠ける。楽境が現前すれば自らを見失い、将来への妄執が強く、苦を忘れ去る。このように苦を感じつつ楽を求める矛盾した心行は、苦の現前観察ではない。非現観の者は弁別智が不足し、自らを現量観察と誤解しがちだが、実証とは程遠い。
非現前観察者の普遍的特徴は、煩悩を断たず無明を絶やさず、言行一致せず表裏があり、空を説きながら有に執着し、無我を語りながら我執を隠せない。実証のない者は証後の身心境界を知らず、自らの凡夫性を覆い隠せない。
回向文:当ネットプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向いたします。世界の民衆に回向し、世界平和と戦争の終熄を祈願します。烽火起こらず干戈永く止み、一切の災難消退を祈ります。各国人民の団結互助と慈心を願い、風雨順時に国泰民安を祈念します。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を結び善業を修め、仏法を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開かんことを。仏教の永興と正法の永住を祈り、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。
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