仏は須菩提に告げたまわく。諸の菩薩摩訶薩は、かくのごとく心を降伏すべし。すべて一切の衆生の類、若しは卵生、若しは胎生、若しは湿生、若しは化生、若しは有色、若しは無色、若しは有想、若しは無想、若しは非有想非無想、我は皆な無余涅槃に入りて滅度せしめん。かくのごとく無量無数無辺の衆生を滅度すと雖も、実に衆生の滅度せられたるはなし。何を以ての故に。須菩提よ、若し菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、即ち菩薩に非ず。
金剛経第三品の中心思想は、仏が菩薩に如何にして心を降伏すべきかを教示したものである。何故心を降伏せねばならないのか。菩薩の心に我相・人相・衆生相・寿者相の四相ある者は真の菩薩に非ず。菩薩は如何にして心を降伏し四相を滅除できるか。仏は言う:仮に四生九有の一切衆生を無余涅槃に度したとしても、衆生を度したと考えるなかれ。法界には実に衆生無く、我も無し。我無ければ衆生を度したと考える必要無く、衆生無ければ無量無辺の被度者あると思う必要無し。かくして四相を滅除すれば、心清浄を得て降伏される。全文は衆生を無余涅槃に入らせることに重点を置かず、仮に真に無量の衆生を度したとしても、実はそうではないことを示す。
人に我相あれば、「我は如何」「我は何を為すべき」と自我を強調し、常に自己中心を基点として我執を顕現させる。
人相に執すれば、人間の善悪是非に拘泥し、人々に依存して世俗の利益を求め、独りでは安住できぬ。衆生相あれば、衆生に囲まれ追従されることを希求し、名聞利養を求む。寿者相あれば、長寿不死を願い、寿命の永続を望む。
これら四相は皆虚妄の相、幻化の実体無き相なり。四相を抱けば我見を断ち結縛を除くこと叶わず、生死輪廻は止まぬ。故に菩薩はまず我見を断じ四相を破らねばならない。四相を破りて後、菩薩は心空となり無為を得、無辺の福徳を以て無上正等菩提を成就する。
或る問い:仏は何故無量無辺の衆生を無余涅槃に入らしめるのか。全文を見るに、仏は衆生を無余涅槃に入らせず、経典の宗旨は文中の一語一句と大いに異なる。仏は衆生に法を学び経を読むに当たり義に依り語に依るべからずと説く。真義は完全なる一書一章一節一段の中にのみ如実に現れる。断片的に抽出すればその意味は歪む。経典を読むには全貌と宗旨を充分に理解し、断章取義せず、義に依り語に依らざるべし。然らずんば三世諸仏の冤となる。
回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止む。一切の災害ことごとく消退せんことを。各国人民が団結相助け、慈心を以て相対し、風雨順調に国泰民安ならんことを。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を修め、仏法を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永興と正法の永住を祈願し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。
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