倶舎論疏第二十三巻原文:思所成の慧は此に准じて説くべきなり。次に生死に対し深く厭患の心を生じ、涅槃の寂静なる功徳を欣楽す。此の後多く厭観を引き現前せしむ。方便を勤修し漸く増し漸く勝れたり。此の如き能く順決択に随順するを引起す。思所成に摂せられる最勝の善根、即ち修する所の総縁共相の法念住なり。
釈:思所成の慧は聞所成の慧の準則に依っても亦説くべきである。聞所成の慧が円満した後に、生死輪廻に対し深く厭患の心を生じ、世俗を倦み、涅槃の寂静なる功徳を欣楽する。此の後は更に多く厭離世間の観行を引生し、世間の厭うべきを現観する。斯くの如くして修道と観行に対し一層精進し、観行は益々深く、智慧は益々殊勝となる。遂には五蘊の苦・空・無常・無我に随順する順決択分を引生するに至り、思所成の慧に摂属される最勝の善根が現れる。これが修する所の五蘊の総体に縁って四聖諦の共相を観る法念住である。
共相とは一切衆生の五蘊が同じく苦・空・無常・無我であることを指し、全ての衆生の五蘊が此のような共通の属性を具えることをいう。これに対し別相とは、個別の衆生の五蘊が持つ苦・空・無常・無我の属性である。法念住は別相と共相の二角度から次第に観察して初めて修行が円満する。
ここに思所成の慧が具える相貌と特徴が描かれている。最も主要なのは五蘊の世間に対する厭患心、三界世間を倦み、清浄なる涅槃の功徳を向往し、内心が五蘊の苦・空・無常・無我の理に随順し、四聖諦の理に背かず、四念住に対し如理如実の決択を起こし、順決択分を発起することである。順とは四聖諦に随順し背かない意味であり、もし内心が無我・無常・苦・空を拒むならば、順決択分はなく、聞慧も円満具足しない。
もし学人が未だ五蘊世間に対する厭離心を生じず、依然として世間に欲求と希冀を抱き、世間法を讃歎し、三界世間法に貪着して捨離せず、世間の眷属に執着し情執が深重であるならば、思所成の慧はなく、四聖諦の理に随順しない。斯くの如くでは修所成の慧は更に具足せず、証道からは余りにも遠い。所謂る証果明心の人の言行を観察すると、極めて稀にしか世間を厭患する者はおらず、大多数は世間に貪欲と希冀で満ちている。故にこれらの所謂る果は真の果と余りにも隔たりが大きく、その来世の果報を思うと慨嘆せざるを得ない。
或る者は言うであろう、我々が大乗法を修学し仏道を成じようとする者は、五蘊を保有し五蘊世間の中で修行し、自利利他すべきであり、五蘊世間を厭離すべきではない、もし世間を厭離するならば菩薩種姓に非ずと。これは誤った見解である。菩薩は声聞・縁覚と同様に世間に厭いを生ずべきである。但し厭いながらも離れず、決して凡夫のように世間を喜楽し貪着することはない。世間が幻化であると明知している菩薩の智慧が、どうして幻化の世間に何らかの希冀や欲望を抱けようか。欲や貪や喜楽があれば、その智慧に欠損や誤りがあり、空幻の理を明らかにしていない証左である。菩薩は世間が空幻であることを知り、その心は淡泊で欲も求めもない。ただ道業と衆生の為に、その願力に随って世間を歩まざるを得ないのである。これに対し凡夫の心は「やむを得ず」ではなく、世間を欣楽し、世間に味着し、捨離を忍ばない。故に小乗の学人であれ大乗の学人であれ、思所成の慧を修め出せば必ず世間に厭離欲を生じる。菩薩が欲を離れなければ真の菩薩ではない。
聞所成の慧と思所成の慧の双方に禅定がある。ただ禅定の深浅が異なるだけである。もし基本的な粗浅な禅定すらなければ、聞所成の慧は円満具足できず、まして思所成の慧や修所成の慧は論外である。各々の智慧は全て禅定と分離せず、定心がなければ心神散乱し、聞思は具足しない。定が浅ければ慧も浅く、定が深ければ慧も深い。その後修所成の慧が集積する過程においては、禅定が必ず未到地定を具足して初めて参証成就し、見道することができる。未到地定が具足しない時は、聞慧と思慧はあり得ても、修慧は円満できず、従って見道もできない。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く息む。一切の災害、尽く消退せんことを。各国の人民が団結互助し、慈心をもって相い向かい、風雨順い時を得、国泰く民安んぜんことを祈願す。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ、涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆、正法の永住を祈願し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならしめんことを。
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