仏法が世間法を壊すか壊さないかという件が公案となり、事相によって参究させるものである。心を参究するためのもので、心を見て心を明らかにすれば、仏法と世間法の関係が分かり、それ以上理論的な知見を説いても無駄であり、全て葛藤に絡まるだけである。禅宗公案と呼ばれる以上、それは禅に関わるものであり、禅は即ち心である。心は証して見て顕すべきもので、大量の理論的知見を必要とせず、一切の見解は無用である。大蔵経の教理を説いても、それは無駄話に過ぎない。
弟子が「壊す」と一言言えば仏法であり、「壊さない」と二言言えば仏法である。壊すと壊さない、言うと言わない、全て仏法である。師弟は互いに明々白々としており、言葉を交わさずとも理解し合える。ただの演劇に過ぎない。菩薩が演じ、凡夫が観る。玄人は奥義を見、素人は賑やかさを見る。賑やかさすら理解できないなら、何を論じる必要があろうか。様々な論証を重ね、壊す壊さないの理を、いったい誰に説くというのか。
経典は理を説くためのもので、理があれば存分に説き明かすべきである。公案は事相によって理を顕すもので、表面上は全て事相を語りつつ、その中に真実の理——真心自性如来蔵を顕す。口を開かずとも理は自然に現れる。簡潔明瞭で直截的、玄人なら一目で理解し、心と心が通じ合う。実際、法を説くには必ずしも玄妙を語る必要はなく、大量の理論を並べずとも、一言も発せずに真実を説き衆生を済度できる。香積仏国土では仏と菩薩たちが香りを嗅ぐだけで悟りを開き、他の仏国土では仏が菩薩たちと一食を共にするだけで悟らせる。長々とした理論など不要であり、言語も文字も必須ではない。道は言語文字に関わらない。ただ娑婆世界の衆生が言語文字の習気を持ち、自己の思想感情を表現し、豊富な理論知識を誇示したがる。文章は長ければ良いと思い、書籍は多ければ良いと思うが、実は無駄話ばかりで、長文など不要である。点睛の数筆で足りる。道は極めて単純である。道なき者が億万の文字を綴っても、ただ心神と精力を浪費するだけ。道ある者は静寂を好み、道なき者は滔々と語り、長々と論じて自我を顕わす。
回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災害ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結協力し、慈悲の心をもって相対し、風雨順調に国泰民安ならんことを。全ての衆生が因果を深く信じ、慈悲の心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ仏を学び善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教が永遠に興隆し、正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。
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