四念処の観行は四聖諦と関係があるのでしょうか。四念住の観行過程において、各念住ごとに四聖諦の理を観じます。これを合わせて十六の行相を観察し、十六行相を具足して観行すれば、四種の智慧の境地、すなわち四善根を得ることになります。この四善根とは暖・頂・忍・世第一を指し、四加行とも称されます。これは見道以前に必ず経なければならない段階であり、四加行の四善根は修所成慧に属します。これ以前は聞慧と思慧に属し、比較的浅く意根まで熏習されていません。意根に熏習が及び、意根に触発と変化が生じ、苦・空・無常・無我に随順し、順決択分を発起して初めて修所成慧を得るのです。修所成慧を具足円満して初めて見道できます。故に四加行は極めて重要であり、皆様もご理解すべきです。この方面の法義を順次説いて参りましょう。
さらに補完すべき理論として三十七道品を詳説し、各自が自らが三十七道品を修しているか、またどの程度修得したかを把握できるように致します。最後に、見道以前の修道過程において、どのような比較的粗重な欲界の煩悩を禅定において断ずべきかについて述べます。細かな煩悩は見道後に初めて断じ得、見道以前には断じ得ず、ましてや色界の煩悩は断除できません。これで小乗の法義はほぼ十分であり、これ以上を説く必要はありません。
修道とは、実に九割の時間を個人の実修に費やし、ごく僅かな時間を法を聞き理論的知見を吸収するために用い、修行が邪道に逸れぬよう指導するものです。理論的知見がほぼ充足したなら、完全に個人が専心一意に実修に励むべき時であり、さらに多くの時間を理論学習に費やすことは徒労となります。故に今後は余り多くを説かず、皆様の実修を妨げぬよう心掛けます。将来理論的な不足が認められれば徐々に補足し、具体的には実修を主とし、理論は必要十分とし、貪り多くを求めても大した益もなく、ただ時間を浪費するのみです。
四加行の修行段階においては、意根への有効な熏習により身心共に変化が生じ、心は以前より清浄となり、煩悩は軽減され、身口意の行いが変わります。これによって初めて見道後の聖賢の心行の品質に次第に相応し、見道できるのです。故に身心が変化し煩悩が軽減されたからといって、直ちに見道・証果したわけではなく、未だ程遠いのです。大乗法において悟ったと常に疑う人々が、これらの法を修せず、具足円満に修していないなら、今後この疑いを断つべきです。悟後と悟前で身心世界に大した変化がなく、単に知見が多少増えただけ、あるいは知見すら不足している者が、三十七道品も修せず四加行にも至らず、ただ聞思の段階に留まっているなら、このような誤解は甚だ大きいと言えます。何故このような誤解が生じるのでしょうか。
回向文:当ネットプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く止むことを。一切の災難ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結相助け、慈心をもって相対し、風雨時に順い、国泰く民安んぜんことを願います。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏法を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆を祈願し、正法の永住を願います。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。
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