衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年05月10日    火曜日     第1 回の開示 合計3623回の開示

漸修と頓悟とは何か

『楞厳経』において仏は次のように説かれました。理は頓悟を要し、事は漸修を要すると。これは如来蔵の理体が一瞬のうちに頓悟されるものであることを示します。しかしこの真実の理体を頓悟したとしても、心の行いが完全に清浄となったわけではなく、無明が完全に滅尽したわけではありません。これらの無明惑や塵沙惑は、頓悟後に縁に歴り境に対する中で観照を通じ、次第に除去される必要があります。一点の無明や煩悩も断じないまま頓悟できるというのではなく、もしそうであればそれは縛られた凡夫に過ぎず、頓悟によって聖道を成就した聖賢とはなり得ません。

頓悟に至る前には漸修の過程が必要であり、この悟前の漸修は悟後の漸修とは性質を異にします。悟前の漸修とは三十七道品や菩薩の六波羅蜜を修め、戒定慧を修行し、暖・頂・忍・世第一という四善根を具足して初めて大小乗の仏法を頓悟できるのです。この理を譬えるなら、千年を経た老樹を切り倒すようなものです。太い幹を倒すには工具で少しずつ切り刻む必要があり、この過程が漸修に相当します。やがて老樹が一気に倒れる瞬間が頓悟に相当するため、漸修なくして頓悟はあり得ません。

木を倒した後の加工、すなわち樹皮を剥ぎ、板材に裁断し、磨きをかけ、塗装し、蝋を引くなどの工程は悟後の漸修に似ています。最終的に板材を美しい家具や工芸品に組み上げることが、究極の頓悟による成仏に相当します。老樹を切り倒す作業は大変な労力と忍耐を要し、鋭利な工具と熟練した技術が必要です。これは見道に必要な資糧に相当し、資糧が不足すれば見道は叶いません。修行の道においては、次第に脱落する者が多く、初心を発する者は万いても堅持する者は稀で、成道する者は一も得難く、聖人は鳳凰の羽のように極めて稀で貴い存在です。

悟前の漸修と悟後の漸修を混同し、悟前に漸修は不要と考える向きもありますが、漸修を経ない頓悟は解悟にすら至らず、単なる思弁に過ぎず、何らの功徳も生じません。ただし極めて善根厚き諸地の菩薩は前世の修行の基盤により直接頓悟し得ます。悟前の漸修こそ凡夫の心性を聖なる心に転換する過程であり、脱胎換骨の業であり、鯉が竜門を跳ぶ前の変容です。この過程なくして如何にして変容できましょうか。真に悟った者を見極めるには、その心性と骨格を観察すべきで、表面の華やかさや弁舌に惑わされてはなりません。

漸修とは自らの身心を次第に聖賢の身心に近づけることで、聖賢の基準に達して初めて頓悟見道が可能となります。これが心を修める過程であり、心が変わらなければ聖賢の行いとは成り得ません。故に漸修は修所得慧を生起させる要諦であり、これ以前の聞所得慧や思所得慧は極めて浅く、生死の業障に抗し得ません。修所得慧が具足して初めて証道所得慧が生じ、三悪道の業を免れ、煩悩を断じ、輪廻の苦より解脱するのです。

回向文:このネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和を祈願し、戦争の起こらぬことを、烽火の燃え上がらぬことを、干戈が永く止むことを、一切の災難が悉く消退することを。各国の民が団結し慈心をもって相対し、風雨時に順い国泰く民安んずることを。全ての衆生が因果を深く信じ慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び善業を修め、仏法を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開くことを。仏教が永く興隆し正法が常住し、三界の火宅を極楽の蓮邦となすことを祈願します。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

修所成慧の四加行と四善根

次の記事 次の記事

夢中で夢を知ることは意識の証自証分か、それとも自証分でしょうか

ページのトップへ戻る