楞厳経において仏は説かれました:理は頓悟を要し、事は漸修を要すると。これは如来蔵の理体が一瞬のうちに頓悟されるものであることを示しています。しかしながら、この真実の理体を頓悟したとしても、心の働きはまだ完全に清浄ではなく、無明は完全には消滅していません。これらの無明の惑いや塵沙惑は、頓悟の後に縁に歴り境に対する中で観照を通じて、次第に除去されていく必要があります。ただし、一点の無明や煩悩も断じていない状態で頓悟できるというわけではありません。もしそうであるならば、それは完全に束縛された凡夫に過ぎず、頓悟によって聖道を得た聖賢とはなりえません。
頓悟の前には、漸修の過程が必要です。この漸修は悟後の漸修とは異なり、その性質は全く別物です。頓悟前の漸修とは、三十七道品や菩薩の六波羅蜜を修め、戒定慧を修習し、煖・頂・忍・世第一という四善根を具足して初めて、大小乗の仏法を頓悟できるようにするものです。この問題を譬えを用いて説明すれば、法理はより明らかになります。例えば、千年も生きてきた老木を切り倒す場合、幹は非常に太いため、幹を倒すには道具を使って少しずつ切り刻んでいく必要があります。この過程は漸修の過程に相当します。そして最後に老木が一気に倒れることが頓悟に相当します。したがって、漸修なくして頓悟はありえません。
木を倒した後の加工、例えば樹皮を剥いだり、板材に裁断したり、磨いたり、研磨したり、ワックスをかけたり、着色したりする工程は、悟後の漸修に似ています。最後に板材を組み合わせて見事な家具や工芸品にするのは、最終的な頓悟による成仏に相当します。老木を切り刻むことは非常に労力と苦痛を要し、忍耐力、持久力、体力が必要で、道具も鋭利でなければならず、技術も優れている必要があります。これは見道に必要な資糧に相当します。資糧が不足していれば、見道することはできません。修行しているうちに退転して脱落したり、足踏みしたりする人もいれば、あっさりと方向転換してしまう人もいます。修行の道は、進むほどに人は少なくなり、初発心の者は万いても、堅持する者はほとんどおらず、成道する者は必ずしも一人いるとは限りません。それ故に聖人は鳳凰の羽や麒麟の角のように非常に稀で貴重であり、出会えたなら大切にすべきです。
ある人々は悟前の漸修と悟後の漸修を混同して区別せず、悟前には漸修がなく、修行は悟後のことだと考えています。しかし、漸修を伴わない頓悟は、解悟ですらなく、全くの情思意解、憶測や推測に過ぎず、少しの功徳や受用もありません。ただし、極めて大きな善根を持つ諸地の菩薩は、前世の基盤が厚いため、直接頓悟することができます。悟前の漸修は、まさに凡夫の心性を聖なる心へと転換する過程であり、脱胎換骨の過程であり、鯉が竜門を跳ねる前の変容過程です。この過程なくして、どうして変容できましょうか。それ故に、ある人物が真に悟っているかどうかを観察するには、その心性を観察し、その骨格(本質)を観察すべきであり、表面的な華やかさ、能弁さ、誇張した言葉遣いを見てはいけません。本質が最も重要です。
漸修とは、自らの身心を次第に聖賢の身心に近づけ相似させることであり、聖賢の基準に達して初めて頓悟見道できるのです。これが心を修める過程です。心が変わらなければ、聖賢の心行ではないため、聖賢とはなりえません。それ故に漸修は非常に重要であり、修所得慧を生起させる鍵となる段階です。これ以前は聞所得慧や思所得慧は非常に浅く、生死の業障に全く抵抗できません。修所得慧が具足して初めて証道所得慧が生じ、三悪道の業を免れ、煩悩を断じ、輪廻の苦から脱することができるのです。
回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が上がらず、干戈が永遠に止むことを。全ての災難がことごとく消退することを。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって相対することを祈願します。風雨順わず、五穀豊穣で、国が泰らかに民が安んずることを。一切衆生が因果を深く信じ、慈しみの心で殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び、善根が増長することを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教が永遠に興隆し、正法が永く住することを祈願します。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを!
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