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日常法話

2022年05月12日    木曜日     第1開示 合計3624開示

夢中で夢を知ることは意識の証自証分か、それとも自証分でしょうか

証自証分は、識心自身および自身の心所法を反観するものであり、「自身」とは、意識が意識を了別し、意根が意根を了別し、五識が五識を了別することを意味し、相互に了別する意味ではない。自証分は、識心が相分の境界を了別することであり、この相分は一切の法を含み、当然第八識およびその心所法も含まれる。それは了別する智慧の如何による。夢とは夢境を指し、相分である。「知」は識心の見分であり、識心が塵境を了別するのは、見分が相分を了別する自証分であって、証自証分ではない。見分が自己自身を見るのが証自証分である。見分と相分が結合して初めて自証分と証自証分が生じる。証自証分は実は自証分の一種に過ぎないが、相分が識心自身に変わり、自己および心所法が相分となったのである。

夢境の相分を了別する見分は、第六識・第七識の見分であり、かつ第六識は独頭意識である。一切の境界を見るのは主に第六・第七識の見であり、衆生が感じ取れるのは意識の見のみで、第七識の見は体察できない。ここではとりあえず意識の見について述べよう。眠って夢を見ている時、なぜ独頭意識は夢を見ていると知らないのか? それは夢中で意識が昏沈して清明でなく、睡眠自体が一種の蓋障(妨げ)であり、意識の智慧認知を遮蔽するからである。

睡眠の蓋障を除き、遮蔽がなくなれば、意識は清明となり、初禅定を得る。あるいは禅定が次第に深まるにつれ、睡眠はますます少なく浅くなり、夢中で意識はますます清明となり、自らが夢を見ていることを明確に知り、夢中でも悪業を造らず、善業さえ行えるようになる。ゆえに夢中で夢と知ることは、第六・第七識が定慧を具え、睡眠の蓋障が軽微であることを示す。夢中で夢と知らないのは、第六・第七識の識性が睡眠に覆われ、心が清明でないためである。

夢中の知見は独頭意識の見分であり、意根が意識の見に大きく影響する。ここでは具体的な影響には触れない。夢中で独頭意識が了別する境界は限定的であり、五識の補助を受けて了別する五俱意識ほど全面的でも明確でもない。夢中で夢と知らないのは、独頭意識の自証分の機能が不十分で智慧力が弱いためであり、これは色身と意根に関係する。意識のすべての了別機能の強弱は、意識自身の定慧のみならず、意根の定慧、色身にも関わり、色身と意根を離れて意識の機能作用を論じることはできない。

なぜ色身に関係するのか? 覚醒時の意識の了知が色身の影響を受けることは周知の理である。睡眠中は意根が境界を了別しようとせず、六識はすべて生起しない。夢中では、独頭意識が強制的に夢境を了別するが、神経系の活動が全般に緩慢なため、意識の思惟が抑制され、認知智慧が比較的低く、対する境界が夢境であると弁別できず、夢境を現実と見なしてしまう。これは酩酊時の状況と同様で、いずれも神経系の不活発さに起因する。

夢中で意識に証自証分があれば、それは意識が自らおよび心所法を了知できることであり、これは反観力である。これは意識が塵境を了知するよりも強い定慧を必要とし、難度がより高い。夢中で意識の自証分の機能が不足すれば、証自証分の機能はほとんどなく、自身を証知することはできず、したがって反観もできない。ただし、禅定が極めて優れ、覚悟性が強く、四禅八定を具える者であれば、夢中の反観力はより良くなる。

意識の幾つかの機能作用の強弱は、意識自身の定慧の問題であるだけでなく、より一層意根と関係する。古来より、ほとんど誰もこの問題を認識・観察できていないが、意識の機能作用は確かに意根から切り離せず、両者は相補い合う。意根を離れて意識を論ずるのは、本末を転倒させるものである。

回向文:当ネットプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向する。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永久に止むことを。一切の災難、ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結互助し、慈心をもって相い向かい合うことを祈願する。風雨順調で国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆、正法の永住を願う。三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。

——生如法師の開示
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