衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年04月27日    水曜日     第1開示 合計3621開示

禅宗公案の用法

仏法が世間法を壊すか壊さないかという件が公案となり、これは事相によって参究させるものであり、心を参究するためのものである。心を見て、心を明らかにすれば、仏法と世間法の関係が分かる。それ以上に理論や知見を語っても何の役にも立たず、すべては葛藤に絡まるようなものだ。禅宗公案と呼ばれる以上、それは禅に関わるものであり、禅とは心である。心はあなたが証し見て顕すべきものであり、大量の理論や知見は不要である。一切の見解は無用であり、大蔵経の教理を説いても、それもまた無駄話である。

弟子が「壊す」という一文字を言うのも仏法であり、弟子が「壊さない」という二文字を言うのも仏法である。壊すとも壊さないとも、言うと言わないとも、すべて仏法である。師匠と弟子は互いに明らかであり、言葉を交わさずとも互いに理解し合っている。ただの芝居に過ぎない。菩薩は演じ、凡夫は見る。玄人(くろうと)は門道(ものの本質)を見、素人は賑やかさを見る。賑やかさすら理解できないなら、何を語る必要があろうか。様々な論証を重ね、壊すか壊さないかを、一体誰に道理を説くというのか。

経典の教えは理を説くためのものである。この時、もし理があれば存分に語り、大いに語ればよい。しかし公案は事によって理を顕すものであり、表面上はすべて事相を語っているが、事の中に真実の理――真心自性如来蔵――が現れる。口を開いて話す必要すらなく、理は自然に顕れる。簡潔明瞭で直接的に現成(ありのまま)であり、玄人(くろうと)は一目見れば理解する。心と心が通じ合うのである。実際、法を説くには必ずしも玄妙(深遠で不可思議)なことを語る必要はなく、大量の理論を講じる必要もない。一言も話さずとも、ありのままに法を説き人を度(ど)することもできる。香积仏国土(こうしゃくぶっこくど)では、仏と菩薩たちは香りを嗅ぐだけで菩薩たちを悟らせ、他の仏国土では、仏は菩薩たちと一食を共にするだけで菩薩たちを悟らせる。長々とした理論を語る必要は全くない。言語は必須ではなく、文字も必須ではない。道(真理)は言語文字に関わらない。ただ娑婆世界(しゃばせかい)の衆生だけが言語文字の習気(しゅうけ:執着)を持ち、言語文字で自らの思想感情を表現し、自らの理論知識の豊富さを誇示したがる。書く文章は長ければ長いほど良く、出す本は多ければ多いほど良いと思い込んでいるが、実はすべて無駄話が多く、根本的に長々と論じる必要はない。画竜点睛(がりょうてんせい:核心を突くわずかな筆致)の数筆で十分用が足りる。道というものは実に単純である。道なき者が千万億の文字を書いても、ただ自他の心神と精力を浪費するだけだ。有道の人は静寂を好み、無道の人は侃侃諤諤(かんかんがくがく:盛んに議論する様)を好み、大言壮語し、長々と論じて自己を顕示しようとする。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火(のろし)が上がらず、干戈(武器)が永遠に止みますように。一切の災難がことごとく消退しますように。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって互いに接しますように。風雨順調で、国泰民安(国は安泰で民は安らか)でありますように。一切の衆生が因果を深く信じ、慈しみの心で殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び、善根が増長しますように。苦を知り集(煩悩の原因)を断ち、滅(涅槃)を慕い道(修行)を修めますように。悪趣(地獄・餓鬼・畜生)の門を閉ざし、涅槃の道を開きますように。仏教が永遠に興隆し、正法が永遠に住しますように。三界の火宅(迷いの世界)を変じて、極楽の蓮華の国(浄土)と成らしめますように。

——生如法師の開示
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仏法は世間法を破壊するのでしょうか、それとも破壊しないのでしょうか?

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修所成慧の四加行と四善根

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