仏法は世間法を壊すこともあり、壊さないこともある。なぜこのように言うのか。世間法が壊れないならば、衆生は世間法に執着して生死の苦から解脱できず、一方で仏法が世間法を壊すならば、世間法は成立する基盤を失い、仏法如来蔵のみが残り、衆生は全て無余涅槃に入り、世間も衆生も存在しなくなるからである。
では仏法はどのように世間法を壊すのか。四聖諦と十二因縁はまさに世間法を破るためにある。四聖諦は世間が苦・空・無常・無我であることを示し、衆生がこの理を認識し証得すれば煩悩を断じて解脱を得る。十二因縁法は世間の一切の法が因縁によって生じた空なるものであることを示し、この理を証得すれば無明を滅し、世間法への貪愛と執着を断ち、世間の苦から解脱する。大乗の観点から見れば、世間の一切の法は如来蔵が幻化したものであり、故に世間法は空で実体のないものである。これもまた世間法を破るものである。大小乗の教えは共に衆生に五蘊が空で無我であることを認識させ証得させ、六根・六塵・六識が空で虚妄で無我であることを悟らせる。これによって五蘊の世間法が破られる。
仏法はどのように世間法を壊さないのか。般若と唯識の観点から見れば、一切の法は真如であり、真如が一切の世間法を安立する。これが世間法を壊さない所以である。「法は法位に住し、世間相は常住なり」これが世間法を壊さないことの表現である。如来蔵は円成実性を具え、一切の世間法を円満に成就する。一切の法は一つの真実の法界であり、これを一真法界と呼ぶ。
五蘊の金器は全体が金である。まず五蘊の相を破って初めて金の相を識る。金の相を識った後は、五蘊の金器もまた金であるから、五蘊金器の相を壊す必要がなくなる。まず破り後に立てる。破らなければ立てられない。五蘊の器相に固執する時は金を見失い、金を識れば五蘊の相があっても妨げない。五蘊を我と真実と見做す時は真実を識ることができず、五蘊の我相と真相を破って初めて真実を識る。世間法を破壊して初めて真実を顕現し証得できる。故にまず壊して後に立てる。しかし究極的には、最も究竟した仏法を修める時、世間の一切が即ち真実となり、仏法は世間法を壊すどころか、かえって世間法を成就するのである。
では結局仏法とは何か。この問いに答えるには、何が仏法でないかを反証すれば仏法の本質が明らかになる。何が仏法でないか。一法として仏法でないものはない。あなたが見聞覚知するもの、想像し得るものは全て仏法である。仏とは何か。この問いは、何が仏でないかを指摘すれば仏の本質が分かる。世間法の全てが仏であり、衆生は常に仏に依り、仏の法を用いながら、ただ仏を識らず、法を知らず、仏恩法恩を知らないのである。如何にして仏恩に報いるか。仏を識り、法を認め、さらに衆生にも仏を識らせ法を認めさせることこそが仏恩に報いる道である。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界のすべての衆生に回向し、世界の民衆に回向する。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災害禍いことごとく消退することを。各国の人民が団結し助け合い、慈心をもって相対することを祈る。風雨順調に国泰く民安んずることを。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ仏法を学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教が永遠に興隆し、正法が永住することを祈願する。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。
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