衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年04月03日    日曜日     第1 回の開示 合計3603回の開示

「1+1=2を知ることは、聞・思・修・証の四慧の中ではどの慧に属しますか?」

聞思修証の四種の慧は全て1+1=2を知っていますが、知と知の差は非常に大きいのです。一歳の子供でも1+1=2を知ることができ、犬も訓練すれば1+1=2を理解できます。大学教授も数学者も1+1=2を知っていますが、その間の差はどれほど大きいのでしょうか。1+1=2はゴールドバッハ予想の難題に属し、中国の数学者では陳景潤と華羅庚のみがその証明に取り組んだことがあります。しかし華羅庚をはじめ他の数学者も有効な証明を与えることはできず、陳景潤が完全に証明したかどうかは不明です。1+1=2を証明できる能力を持つ者は億に一人もおらず、証明に着手できる者も億に一人を超えず、1+1=2を思索できる者は千分の一、万分の一にも満たないのです。しかし1+1=2を知る者は無数に存在します。

では私たち皆が知っているこの「知」には、いったいどれほどの真実が含まれているのでしょうか。同様に、多くの仏教修行者が四聖諦の理や如来蔵の法を学び、数年あるいは二、三年、さらには二、三ヶ月学んだだけで、悟りを証したと称する場合、その中には当然ながら大きな虚妄が存在します。大多数の人は修の段階に至っておらず、如実で着実な修行の因縁もなく、見道の因縁すら満たしていないのです。それでいてどうして修慧や証慧を語れるでしょうか。思慧を得るだけでも大変なことなのです。だからこそ仏道修行の道は容易に歩めるものではなく、自己を過大評価したり仏法を軽視したりすべきではありません。さもなければ旧業が未だ消えぬうちに新たな業を積むことになり、来世での解脱など到底叶わないでしょう。

幼稚園児や小中学生が1+1=2を実証しようとするなら、どのように努力すべきでしょうか。1+1=2を証明する因縁条件をどう整えるべきでしょうか。億分の一、十億分の一という実証確率の中で、これらの子供たちが将来実証できる可能性はどれほどあるとお思いですか。数学の天才でない限り、可能性はほとんどないと言わざるを得ません。1+1=2の証明において最も重要なのは中間の論理演算過程であり、結果は既に示されていますが、中間の証明過程が存在しないため、これを補完しなければなりません。論証過程では結果を忘れ、結果を未知のものとして扱う必要があります。陳景潤の事例を知れば、論証過程の苦労がどれほど大きいかおわかりでしょう。代償は甚大なものです。

仏教において四聖諦や般若唯識に触れて修行する仏子も若干存在しますが、全仏教修行者中の比率は極めて少ないのです。これらの人々の中には大小乗法に対して様々な程度の知和解があり、四種の慧のうち大多数は聞慧に属し、少数が思慧、極少数が修慧を得ていますが、証慧の域に達する者は恐らく数えるほどもおらず、億分の一の可能性です。では既に四聖諦の理と如来蔵の般若空理を知りながら未だ実証していない修行者は、どう実証・親証すべきでしょうか。あるいは既に仏法を理解し解悟した修行者は、どう再び親証・実証すべきでしょうか。どのような因縁条件を整え、どのような努力をすれば真に実証できるのでしょうか。仏法を理解解悟した者たちが実証を目指すには、自らが解した悟りを全て忘れ、結果を未知のものとし、参究の過程に持ち込まないことが必要です。これには修慧が必要であり、三十七道品を実修し、戒定慧を修め、菩薩の六波羅蜜を実践し、見道の諸条件を整え、深甚な禅定の中で理にかなった参究を行う必要があります。故に仏法を解悟した者は、自らの理解を忘れ、過去の知識を放下し、名利心・競争心・虚栄心を捨て、初めからやり直す覚悟を持ち、一歩一歩着実に、焦らず騒がず進むべきです。そうして初めて実証の可能性が生まれますが、その過程では多大な代償を払い、苦労を重ねねばなりません。しかし一滴の汗が一粒の収穫につながるのです。いかなる代償を払おうとも、それは価値あることなのです。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が団結協力し、慈心をもって相対し、風雨順調に国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ法を学び、善根増長せんことを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆と正法の永住を祈願し、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。

——生如法師の開示
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