欲愛とは何か。欲界の諸行を縁として生じ、欲界の行に染汚な希求をなすことをいう。これによって欲界の苦果を生ずる。色愛とは何か。色界の諸行を縁として生じ、色界の行に染汚な希求をなすことをいう。これによって色界の苦果を生ずる。無色愛とは何か。無色界の諸行を縁として生じ、無色界の行に染汚な希求をなすことをいう。これによって無色界の苦果を生ずる。
欲界の諸行には、欲界における一切の生命活動、五蘊の一切の造作、根・塵・識の三者和合による触、および受・想・思、六識が一切法を見て起こす貪・瞋・痴・慢・疑・邪見などの染汚心行が含まれる。染汚とは、心が清浄でなく寂静を失い、執着を捨てず、求取する心があり、我・我所があることを指す。衆生の心は常に染汚の坑中にあり、あまりにも染汚が甚だしいため、自心の染汚を省みることが難しく、染汚と清浄の境界や基準を知らず、自己の一切の心行を当然のことと思い、本来の姿だと考える。故に衆生の修行は正軌に乗ることが難しい。修証の道は実に長遠で艱難を極め、脱胎換骨して初果や初果向を証得することは容易なことではない。
色界と無色界には四禅八定があるが、なぜなお希求があり染汚行があるのか。初果・二果の聖者は四禅八定を持たず、四禅八定を具える者は三果・四果の聖者である。凡夫衆生の四禅八定は煩悩を抑制することはできても断除することはできず、彼らは我見を断じておらず、無明と我見によって不如理作意が生じ、染汚な希求がある。例えば色身を我とし永遠不滅を希求し、受を我として禅定の楽を貪り、識を我として想陰の境界に住するなどである。色界の諸行には眼触による受生、耳触による受生、身触による受生、意触による受生があり、その後色愛が生じて染汚な希求をなす。無色界の諸行には意触による受生のみがあり、禅定の境界に愛着して染汚な希求をなす。
同様に、色界・無色界の天人にも染汚な希求と染汚行があり、三果阿那含と四果阿羅漢を除く全ての天人に程度の差はあれ染汚が存在する。初果須陀洹と二果斯陀含は初禅定を持たず、命終して天に生ずる場合は欲界天に往生するのみで色界・無色界天には至らない。三果の聖者は初禅以上の禅定を具え、命終すれば五不還天に生じ、ある者は中有身において四果となり無余涅槃に入る。四果の聖者は大乗に回心しない限り直接無余涅槃に入る。
故に色界・無色界天の天人ほぼ全ては四禅八定を具える凡夫であり、我見を断じていない凡夫は煩悩を未だ断じておらず、禅定によって比較的粗重な貪・瞋・痴の煩悩を抑えるのみである。凡夫の天人
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