原文:眼処とは何か。眼識が依る所の浄色をいう。これによって色を過去に見、現在に見、未来に見る。眼処がこのようであるように、乃至意処に至るまで、それぞれ相応する所に随って、ことごとく知るべきである。一切の処においては、三時の業用差別を説くべきである。これもまた二種あり、名色の種子に摂受せられた種子六処、及びそれから生じた果の六処である。五つは欲界・色界にあり、第六は三界に通ず。
釈:眼処とは何か。眼処とは眼識が生じ運行するよりどころとなる清浄な勝義の眼根であり、この清浄な眼根によって、過去の色・現在の色・未来の色を見ることができる。眼処がこのようであるように、耳処・鼻処・舌処・身処、はたまた意処もまた同様であり、意識は意根をよりどころとして過去の法・現在の法・未来の法を見ることができ、至る所に随ってことごとく了知することができる。六識が各々の塵境に至るのは、すべて意根の抉択によるものであり、意根が抉択した後に六識が生起し、その後にはじめて了別することができるのである。
眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処の一切の処には、過・現・未の三種の業用差別がある。業用には二種あり、第一は名色の種子に摂受せられた六入処の種子であり、名色が種子位において未だ生じず、六入処はさらに種子位において生じることができない。第二は名色の上に生じた果報体たる六入処であり、前五入処は欲界と色界に存在するが無色界にはなく、第六入処は欲界・色界・無色界に通じる。
原文:眼触とは何か。三和によって生じ、境界を取るに能く、清浄微妙等の義をいう。このように他の触も、それぞれ別の境に随って説くに相応して知るべきである。これもまた二種あり、六処の種子に摂受せられた種子触、及びそれから生じた果の触である。欲界には六つを具え、色界には四つ、無色界には一である。
釈:眼触とは何か。眼触とは眼根・色塵・眼識の三者和合によって生じ、清浄微妙な色塵境界の義を摂取することができるものである。耳触・鼻触・舌触・身触・意触もまた同様であり、根・塵・識の三者和合によって生じ、いずれも清浄微妙な境界相の義を取ることができる。これには二種が含まれる。第一は六処の種子に摂受せられた種子触であり、六入中の前五入が種子位において生じなければ触も生じない。意根が滅しないため意入処は滅せず、ただ名色に触れることができないだけである。第二は六入処によって引き出された果報身の触である。欲界には六種の触があり、色界には四種の触(鼻触と舌触なし)があり、無色界には意触のみで前五種の触はない。
原文:楽受とは何か。楽に順ずる諸根・境界を縁として生じる適悦の受をいい、受に摂せられる。苦受とは何か。苦に順ずる二つ(根と境)を縁として生じる非適悦の受をいい、受に摂せられる。不苦不楽受とは何か。不苦不楽に順ずる二つを縁として生じる非適悦非不適悦の受をいい、受に摂せられる。欲界には三つ、色界には二つ、第四静慮以上、乃至非想非非想処には第三の不苦不楽のみがある。これもまた二種あり、触の種子に摂受せられた種子受、及びそれから生じた果の受である。
釈:楽受とは何か。楽受とは喜楽に順ずる六根と境界を縁として生じる快適喜悦の受であり、受に摂せられる法である。苦受とは何か。苦受とは苦に順ずる心に背く六根と境界を縁として生じる非快適非喜悦の受であり、受に摂せられる法である。不苦不楽受とは何か。不苦不楽受とは不苦不楽に順ずる六根と境界を縁として生じる非快適非不快の受であり、受に摂せられる法である。欲界には三種の受があり、色界には楽受と不苦不楽受のみで苦受はなく、第四禅以上から非想非非想処までは不苦不楽受のみである。不苦不楽受にも二種あり、第一は触の種子に摂受せられた種子受(未だ生じていない受)、第二は触の種子を縁として生じた果報受である。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向する。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、武器永遠に収まることを。一切の災難、ことごとく消退せんことを。各国人民が団結互助し、慈心をもって相い向かい、風雨順調に国泰民安ならんことを祈願する。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺さず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ仏を学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開かんことを。仏教が永く興隆し、正法が永く住んでは、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを祈願する。
0
+1