衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年03月18日    金曜日     第1 回の開示 合計3590回の開示

瑜伽師地論第十巻十二因縁釈(一)

原文:欲愛とは何か。欲界の諸行を縁として生じ、欲界の行に染汚なる希求をなすことをいう。これによって欲界の苦果を生ずる所以である。色愛とは何か。色界の諸行を縁として生じ、色界の行に染汚なる希求をなすことをいう。これによって色界の苦果を生ずる所以である。無色愛とは何か。無色界の諸行を縁として生じ、無色界の行に染汚なる希求をなすことをいう。これによって無色界の苦果を生ずる所以である。

釈:欲愛とは、欲界における一切の行(色受想行識)を縁として生じる愛楽を指し、欲界において行われる染汚なる希求・追求・念願をいう。これらの希求と愛楽によって欲界の苦果が生じる。色界愛とは、色界における一切の行を縁として生じる愛楽を指し、色界において行われる染汚なる希求と念願をいう。これら染汚の希求によって色界の苦果が生じる。無色界愛とは、無色界における一切の行(受想行識)を縁として生じる愛楽を指し、無色界において行われる染汚なる希求と念願をいう。これらによって無色界の苦果が生じる。

欲界の諸行には、欲界における一切の生命活動、五蘊の一切の造作、根塵識の三者和合による触、受・想・思、六識が一切法に縁って生じる貪瞋痴慢疑邪見などの染汚心行が含まれる。染汚とは、心が清浄でなく寂静でなく、執着を捨てず、求取する心があり、我我所を有する状態を指す。衆生の心は常に染汚の泥中にあり、あまりに染汚が甚だしいため、自らの心の染汚を省みることが難しく、染汚と清浄の境界を知らず、自らの一切の心行を当然のものと考える。ゆえに衆生の修行は正道に乗ることが極めて困難である。修証の道は実に長遠で艱難を極め、脱胎換骨して初果や初果向を証得することは容易な業ではない。

色界と無色界には四禅八定があるが、なぜなお希求と染汚行が存在するのか。初果・二果の聖者は四禅八定を有さず、四禅八定を成就した者は三果・四果の聖者である。凡夫衆生の四禅八定は煩悩を抑制するのみで断除はできず、我見を断たぬが故に無明と我見に基づく不如理作意が生じ、染汚の希求を有する。例えば色身を我と見て永滅を希求し、受を我として禅定の楽を貪り、識を我として想陰の境界に住するなどである。色界の諸行には眼触生受・耳触生受・身触生受・意触生受を含み、その後色愛が生じて染汚の希求をなす。無色界の諸行は意触生受のみであり、禅定境界を愛着して染汚の希求をなす。

同理により、色界・無色界の天人も染汚の希求と行を有する。三果阿那含と四果阿羅漢を除き、他の天人には程度の差こそあれ染汚が存在する。初果須陀洹と二果斯陀含は初禅定を有さず、命終すれば欲界天に生ずるのみで色界・無色界天には至らない。三果の聖者は初禅以上の禅定を有し、命終後五不還天に生じ、ある者は中有身において四果となり無余涅槃に入る。四果の聖者で大乗に回心しない者は直ちに無余涅槃に入る。

故に色界・無色界の天人ほぼ全ては四禅八定を有する凡夫である。凡夫は我見を断たぬ故に煩悩を断じず、禅定によって粗重なる貪瞋痴の煩悩を抑制するのみである。凡夫の天人は五蘊十八界中の或る一法、多法、あるいは一切法を我と見て執着し、ほぼ染汚の心行と趣向を有し、ほぼ染汚の希求と念願を有する。例えば不老不死を希求し、禅定の楽と定福を貪求するなど、これら希求は欲望と染汚そのものであり、生死輪廻の業となって苦果を招き輪廻を出離できない。色界・無色界に何の苦があるか。生滅変異は即ち苦であり、死は即ち苦であり、死後なお輪廻あるを知ることは苦であり、三悪道に堕するを知ることは苦であり、生命が永続せぬことは苦であり、色身が不老不死でないことは苦である。

回向文:当ネットプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が団結相助け、慈心をもって相対し、風雨時に順い国泰く民安んずることを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を修め、仏法を信学し、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永興を願い、正法の永住を祈り、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。

——生如法師の開示
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