如来蔵を触証する前に、まず暖・頂・忍・世第一法が現れます。暖・頂・忍・世第一法とは、如来蔵を参究することにより、あるいは阿含経における五蘊無我の理を修学することにより、内心において次第に五蘊を我とする考えを否定し、智慧が次第に明らかになり、次第に明朗となり、ついに完全に五蘊は我ならず我に異ならずと認め、我見を断除し、世間の凡夫を超越し、世間第一の人となることを指します。
完全に五蘊を否定した後、七識を我とする考えを否定した後、六根・六塵・六識を否定した後にのみ、真実の我を証得し、それによって開悟明心することができます。かつて禅宗の祖師は「五蘊を打ち殺してこそ、汝に法身の活きることを許す」と言いましたが、これも同じ意味であり、まず五蘊の真実性を否定し、五蘊を我とする我見を断ってこそ、清浄で真実の法身が活き活きと心中に顕現し、即座にこれが自性であること、これが如来蔵であること、これが法身であることを確認できるのです。一死一活の後、成仏の基礎が築かれるのです。
二者の間は極めて短い時間内に、あるいは五蘊を否定した一瞬のうちに如来蔵を見出すこともあるかもしれませんが、それも我見を断った後のことです。一般には明心の時あるいは後に我見を断つと言われますが、実際には五蘊と七識を否定しなければ、如来蔵を証得することはできません。なぜなら、五蘊七識の迷霧が如来蔵の顕現を遮り、混じり合って真偽を弁別することが一時的にできないからです。
ひとたび我見を断ち、仮なるものを否定すれば、真実が躍り出て、如来蔵を証悟します。もし仮なる五蘊を否定しなければ、智慧の眼が現れず、如来蔵を識別することができず、引き続き参究を重ね、我見を断除した後にのみ、五蘊十八界に属さない如来蔵を見出すことになります。これはおそらく一瞬のことかもしれません。
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