真実を発見するには、意識だけが発見するだけでは不十分であり、必ず意根も同時に法界の真実の相を発見し、意根が証得して初めて仮相から離れることができる。意根だけが六識に仮相を認めさせず、仮相から遠ざかるよう指揮できるのであり、意識心にはこの権利がなく、主導権を握ることはできない。意根が仮相を証得すると同時に、主導権を握って仮相から離れることができる。意識が証得しただけではまだ役に立たず、意根が刹那ごとに仮相と共にある限り、意識は仮相から離れられず、身口意の行いを変えることはできない。
意根は馬をつなぎとめる杭のようなもので、たとえ意識が東奔西走することを許されても、意根という柱を中心に走らなければならず、遠くへ走ることは許されない。もし意根という馬繋ぎ杭が至る所で移動するならば、六識という野馬は意根の動きに従わずに一箇所に留まることができようか。全く不可能である。したがって、仏法を修学する功夫はすべて意根にまで至ってこそ真の功夫であり、初めて自らの身心を変えることができるのである。
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