聖人がこの五濁悪世に至り、意識心がなぜ容易に熏染を受けないのか?仏の意識心がなぜ少しも熏染を受けないのか?意識が熏染を受けるか否かは、主に意根の力が強大であるか否かによる。聖人の意根には煩悩がなく、彼の意識は意根に依存して煩悩もなく、環境の熏染も受けにくい。仏陀の意識は全く染汚されず、泥中の蓮の如し。凡夫の意根は無明煩悩が重く、意識への熏染も重く、意識は容易に煩悩を生じる。地前菩薩もほぼ同様で、わずかにましである。しかし聖人であれ凡夫であれ、五蘊身が生まれたばかりの時は、意識は皆平等であり、真っ白な紙の如く純粋無垢である。その後自らの意根に熏染され導かれ、行為表現は異なるものとなる。さらに環境や父母など他の者たちの熏染を受け、意識の行為表現はさらに異なったものとなる。
同じ意識に本来差別はない。同じ環境の汚染の下で、なぜ仏と聖人の意識は熏染されず、凡夫の意識は熏染されるのか?環境の差別か、それとも意根の差別か?我々はまず識を転じて智とすることについては論じず、ただ子供の頃や仏法を学んでいない時、なぜ意識にそれほどの差があるのかを論じよう。同じ染め物の壺の中にいて、なぜ一方は深刻に染められ悪くなり、貪瞋痴が熾盛となり、もう一方は依然として清浄を保ち、身を清く保つことができるのか?ただ一つの説明がある。意根の差別が意識の差別を招いた、それだけである。
もし意根が先天に貪瞋痴を持たなければ、後天の意識が貪瞋痴の様相に熏染されるというのは全くもって奇怪であり、これはまさに天下の笑止千万である。もしそうであるなら、仏の意根には貪瞋痴がなく、五濁悪世に生まれても、意識は貪瞋痴に染められるはずであり、それでは修行に何の意味があろうか?ゆえに意識が貪瞋痴を持つのは、完全に意根が貪瞋痴を持つからである。もし意根に貪瞋痴がなければ、意識は如何なることがあろうとも貪瞋痴に熏染されることはない。意根が識を転じて智とした後の菩薩は、染汚境にあっても、その意識は貪瞋痴に熏染されず、その菩薩の果位は退転せず、具体的な貪瞋痴煩悩を持つ地前菩薩に戻ることもなく、三果や四果向以前に退戻することもない。
各人の差別は一生一世にあるのではなく、一生の中ではそれほどの差別が蓄積されることはない。差別は生生世世にわたって累積されるのである。ゆえに衆生の間の差別は意根にあり、意根の差別が意識・身・口・意の差別を招き、意識の智慧の差別を招き、福徳と禅定の差別を招く。意根の差別により、意識のあらゆる面の差別が生じ、問題を認識する智慧も大きく異なる。意根の慧は非常に重要であり、五蘊前世の資産に属し、慧根と呼ばれる。もし意根に良き智慧がなければ、我々の前世の修行は全て無駄になり、前世で熏修したそれらの仏法や世俗法も無駄に熏修したことになり、今世に持ち越して享受することはできない。
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