衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月08日    月曜日     第3 回の開示 合計894回の開示

意根の差別によって意識の差別が生じるのです

聖人がこの五濁悪世に来ても、意識心がなぜ容易に染まらないのでしょうか。仏の意識心がなぜ少しも染まらないのでしょうか。意識が染まるか否かは、主に意根の力が強大であるかどうかにあります。聖人の意根には煩悩がなく、その意識は意根に依って煩悩を生じず、環境の影響も受けにくく、仏陀の意識は全く染まることがありません。蓮が泥中にあっても染まらぬが如しです。凡夫の意根は無明煩悩が重く、意識への影響も強く、意識は容易に煩悩を生じます。地前の菩薩もほぼ同様で、僅かにましな程度です。しかし聖人も凡夫も、五蘊身が生まれた当初は意識は平等であり、皆真っ白な紙の如く清浄無垢です。その後自らの意根に染められ導かれるに従い、行為表現が異なってくるのです。更に環境や両親など他者の影響を受け、意識の行為表現は更に異なってきます。

同じ意識に本来差別はないのに、同じ環境の汚染下において、なぜ仏や聖人の意識は染まらず、凡夫の意識は染まるのでしょうか。環境の差別か、それとも意根の差別か。転識成智後の話はさておき、子供の頃や仏法を学ぶ前の状態において、なぜ意識にそんなに大きな差があるのでしょうか。同じ染缸の中にあって、なぜ一方は深刻に染まり貪瞋痴が熾盛となり、他方は清浄を保ち身を潔くできるのでしょうか。ただ一つの解釈、意根の差別が意識の差別を生んだということ、それだけです。

もし意根が先天に貪瞋痴を有さないのに、後天の意識が貪瞋痴の様相に染められるというなら、実に奇怪なことです。これは全く天下の笑い物となるでしょう。もしそうなら、仏の意根に貪瞋痴がなくとも五濁悪世に生まれれば、意識も貪瞋痴に染まるはずです。それでは修行に何の意味があるでしょうか。故に意識が貪瞋痴を有するのは完全に意根が貪瞋痴を有するからです。もし意根に貪瞋痴がなければ、意識は如何なる方法でも貪瞋痴に染まることはありません。意根が識を智に転じた後の菩薩は、染汚境にあってもその意識は貪瞋痴に染まらず、菩薩の果位は退転せず、再び貪瞋痴煩悩を具える地前の菩薩に戻ることなく、三果や四果向以前に退戻することはありません。

各人の差別は一生涯だけに在るのではなく、一生の中ではそれほどの差別を積み重ねるものではありません。差別は生生世世をかけて累積されるものです。故に衆生間の差別は意根に在り、意根の差別が意識身口意の差別を生じ、意識の智慧の差別を生じ、福徳と禅定の差別を生じさせるのです。意根の差別によって、意識のあらゆる面の差別が生じ、問題を認識する智慧も大きく異なってきます。意根の慧は極めて重要であり、五蘊前世の資産に属し、慧根と呼ばれます。意根に優れた智慧がなければ、我々の前世の修行は全て無駄となり、前世で培った仏法や世俗法も全て無駄に終わり、今世に持ち越して享受することはできません。

——生如法師の開示
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