禅宗の参禅法門はすべて、識を用いずに根を用いることを求める。禅宗はあなたが妄想するかどうかには関わらない。余計なことには構わず、ただこの意根を見ることを求める。禅宗の参禅には「話頭を参ずる」という方法があるが、これは中上根の者が用いることができ、下根の者には参じることが難しい。なぜか?この「話頭を参ずる」とは、我々が「念仏するのは誰か?」「父母未生以前の本来の面目は何か?」と参ずることである。多くの人が「念仏するのは誰か」と話頭を参じようとするが、実はこれは話頭を参じているのではなく、話頭を念じているに過ぎない。真の話頭参究とは、言葉が発せられる前の状態を参ずることである。言葉の前頭とは何か?あなたが話そうとするその前、南無阿弥陀仏と念じようとする直前の状態こそが話頭である。
ゆえに、話頭を参ずる工夫とはこうである――阿弥陀仏を念じたいと思いながら、それを敢えて口に出さずに留める。口に出せばそれは話尾となり、逃げ去ってしまう。だからこそ、言葉の前頭を参ずるのだ。阿弥陀仏を念じたい気持ちを抑え、その状態を観察する。念じたいのに念じさせない、この時の心境はいかなるものか?頭の中に阿弥陀仏の名号が浮かばないようにする。浮かべばそれは話尾である。これを成し得るならば、それが真の話頭参究である。この工夫は極めて綿密でなければならない。かつて禅宗が説いたように、念仏の言葉を口に出さず、その前頭を見つめ続けるのは非常に難しい。
話頭参究に焦燥を覚える時、まるで熱い団子を口に含んだようである。熱すぎて飲み込めず、吐き出せば勿体ない。喉元に引っかかった状態だ。また猫が鼠を捕らえる譬えがある。鼠が穴に隠れると、猫は四本の爪で地面を掴み、尾を立てて穴口を凝視する。鼠が出て来るのを待ち構え、一瞬の隙も逃さぬ集中力で見守る。まさに念仏の名号が浮かび上がるのを防ぎつつ、それを想い続ける心境に似ている。鼠が出て来れば捕らえ、出て来なければ待ち続ける。この緊張と期待の狭間で、参禅者は話頭を見つめ続けるのだ。
このように、参禅者は自ら念仏を起こそうとしながらそれを表出させず、その境界を観察する。この境地を思い描けるなら、あなたは中根か上根の者である。もし思い描けなければ、まず妄想を除くべきだ。妄想が徐々に消え、念仏の工夫が深まれば、心は静寂に向かい、やがて意根が現前する。つまり話頭参究とは、意根において工夫を重ねることなのである。妄想が起こらない時、頭脳が澄み渡り明瞭である状態、それが意根の現れである。
評:釈究能法師は参禅の工夫を極めて正確に描写し、参禅時に意根が専一に参究していることを明示した。まさに意根を主とした参禅工夫である。意根で話頭を思量参究できる境地に至れば、その滋味と魅力に引き込まれ、昼夜を分かたず精進を続けるようになる。猫が鼠を窺う如く、成功目前の緊張感を持ちつつ、機を逃さぬ覚悟で工夫を継続するのだ。
なぜ言葉や「阿弥陀仏」の四字が発せられんとする瞬間が話頭であり、意根の参究状態なのか?意根の念には言語文字や音声の相がなく、言葉が形成される前の状態こそが意根の思念である。次の段階で言語や音声が現れ、意識心に落ちれば、もはや話頭参究ではなく「話尾を念ずる」意識の状態となる。全ての法において、意根の思念が常に先行し、意識の思念が後続する。意識の思念は再び意根の思念に転換し得るが、意根の思念を観察把握するのは極めて困難である。
覚醒時の様々な状態において、意識と意根は共に知覚と思念を有する。ただし状況によって、どちらの作用が優勢かが異なる。意根を甲、意識を乙に例えるなら、我々の知覚は乙の知覚である。乙が甲を弁別しようとしても、甲の心念や覚受を理解するのは困難だ。乙が甲の心理状態を知らぬ限り、乙は甲を判断する智慧を有していない。意識がいつ意根の働きを如実に観察できるか?悟りを証得し、道種智を獲得した時のみ可能となる。
現段階では、意識が意根を観察できるかどうかに拘るより、正しい参禅の知見を確立し、前述の工夫状態に照らして実践することが急務である。この参禅工夫を確立すれば、今生で悟らなくとも来世に正しい修行法を継承し、正道を踏み外すことなく、いずれ悟りに至るであろう。
回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生と世界の民衆に回向し、世界の平和と戦争の終熄を祈願します。烽火起こらず、干戈永遠に止み、一切の災難消退を祈ります。各国国民が団結し慈心をもって相助け、風雨順時に国泰民安ならんことを。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を結び善業を修め、仏法を信じ学び善根を増長せんことを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教が永く興隆し正法が常住し、三界の火宅を極楽の蓮邦とならしめんことを。
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