衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2022年02月28日    月曜日     第1開示 合計3574開示

瑜伽師地論第九巻十二因縁釈(一)

原文:縁起の本体とは何か。略して言えば、三つの相によって縁起が建立される。すなわち、前世から現世に生じ、現世から後世に生じる。現世に生じた後、もし流転に向かうならば、もし清浄究竟に向かうならば。

釈:縁起の本体とは何か。簡略に言えば、縁起の本体とは前世の五蘊の身、現世の五蘊の身、後世の五蘊の身という三つの相によって建立された自性である。三つの相とはそれぞれ、前世の縁によって現世に生じた五蘊の身の縁起の本体、現世の縁によって後世に生じる五蘊の身の縁起の本体である。現世に生じた五蘊の身の縁起の本体には二つの異なる結果がある。一つは引き続き六道の生死流転に向かうこと、もう一つは究竟の清浄に向かうことである。

縁起の本体とは、種々の因縁によって生じた五蘊の身を指す。五蘊の身は生々世々に流転し、その世々の流転は前世の業力と因縁に関わり、また現世の業力と因縁にも関わる。そして後世の流転は全て現世の業と因縁に関わる。もし現世で無明と結縛を破れば、後世は清浄に向かい、生死輪廻を滅することができる。そうでなければ、依然として六道輪廻の中を流転する。縁起の本体には三つの相がある。前世の相、現世の相、後世の相である。五蘊の身は前世、今世、後世に分かれ、三つの相は因縁と業力によって同異がある。

原文:いかにして前世から現世に生じるか。現世に生じた後、再び流転に向かうとは。すなわち、ある者が、前世の無明に含まれることを了知せず、無明を縁として、福あるもの、福なきもの、及び不動の身口意の業を、作し或いは増長する。これによって業に随う識は、命終に至るまで流転絶えることなく、後有の相続識の因となりうる。

釈:前世の因縁によって現世に生じた縁起の本体が、現世に生まれた後、再び生死流転に向かうのは、なぜか。これは、もしある縁起の本体を持つ衆生が、前世の自心の無明を知らないが故に現世の生死流転があるにもかかわらず、現世でも依然として無明の故に、福ある身口意の業行を作り、あるいは福なき身口意の業行を作り、あるいは福あるでもなく福なきでもない清浄不動の身口意の業行を作り、あるいはさらに進んで福業、無福業、非福非無福の清浄不動の身口意の業行の造作を増長させるからである。これらの業行の造作によって、業力に随って運転する六・七識は、五蘊の身を命終まで引き続き流転断絶させず、後世の三有において六識が生じる因となる。

業に随う識とは六・七識を指し、主に第七識である。具体的に業行を造作するのは六識であり、業行の造作を主宰し指揮するのは第七識の意根である。五蘊の身が造作する一切の業種は、時を移さずアーラヤ識に蓄えられる。アーラヤ識はこれらの業種に随い、絶えず業種に相応する五蘊の身を生じ変異させる。業力のあるところには必ず意根と六識の運転があり、当然アーラヤ識の運転もある。それは染汚業であれ清浄業であれ、業力に相応する五蘊の身を執持するためであり、アーラヤ識自身は生死の流れの中を流転しない。意根である第七識は生々世々、自身の業力に随って流転し、意根と業力は須臾も分かたず結びついている。六識は断続的であり、常に業力と共にあるわけではない。六識が生じ流転するのも、意根と業力が滅しない故であり、また意根の無明の故である。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が興らず、干戈が永く止み、一切の災難がことごとく消退することを祈願します。各国の人民が団結し助け合い、慈心をもって相い向かい、五穀豊穣で国が安泰で民が平安であることを祈願します。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根が増長し、苦を知って集を断ち、滅を慕って道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを願います。仏教が永く興隆し、正法が永く住し、三界の火宅を極楽浄土に変えることをお祈り申し上げます。

——生如法師の開示
前へ前へ

釈究能法師の参禅要訣

次へ 次へ

瑜伽師地論 第九巻 十二因縁釈(二)

ページトップへ戻る