衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年02月27日    日曜日     第1 回の開示 合計3573回の開示

釈究能法師の参禅要訣

禅宗の参禅法門は、すべて私たちに識ではなく根を用いることを求めます。禅宗はあなたが妄想するかどうかには関わりません。それらの余計なことには構わず、ただこの意根を見ることを求めます。禅宗の参禅には「話頭を参ずる」という方法がありますが、これは中根や上根の人が用いることができ、下根の人は参じることができません。なぜでしょうか?この「話頭を参ずる」とは、例えば「念仏するのは誰か?」「父母未生前の本来の面目は何か?」と参ずることです。多くの人が「念仏するのは誰か」と話頭を参じようとしますが、それは話頭を参ずるのではなく、話頭を念じているに過ぎません。話頭を参ずるとは、言葉の前頭を参究することです。言葉の前頭とは何か?あなたが話そうとするその前、南無阿弥陀仏を思おうとするまさにその瞬間、言葉が発せられる前の状態を指します。

ですから、話頭を参ずる工夫とはこうです――阿弥陀仏を念じたいと思いながら、あえてそれを口に出さず、口に出せばそれは話尾となり、逃げてしまいます。だからこそ、言葉の前頭を参究するのです。阿弥陀仏を念じたいが、あえて念じ出さず、その状態を観察します。頭の中に阿弥陀仏が浮かび上がらないようにするのです。浮かべば話尾となります。これを実践できれば、それが話頭を参ずるということです。この工夫は極めて綿密に行う必要があり、その集中度合いは、かつて禅宗が説いたように、まるで熱い団子を口に含んだかのようです。飲み込めば喉を焼き、吐き出せば惜しい。まさにその状態です。

猫が鼠を捕まえるように、話頭を参ずる者は、念仏が湧き出るのを防ぎつつ、その瞬間を見守ります。鼠が穴から出るのをじっと待ち、一瞬の隙も逃さぬ集中力が必要です。まさにこのような状態が、意根に働きかける参禅の工夫なのです。妄想が起こらない時、頭の中が澄み切って明らかな状態、それが意根の働きです。

評:釈究能法師は参禅の工夫を極めて正確に描写し、参禅時に意根が専心して参究していることを明示されました。この意根を主とした工夫を修得すれば、話頭参究の深い味わいと魅力を感じ、昼夜を分かたず精進することができるのです。猫が鼠を待ち構えるように、成功目前の緊迫感を持って工夫を重ねる時、悟りは必然となります。

なぜ一つの言葉、あるいは「阿弥陀仏」の四字が発せられんとする瞬間が話頭であり、意根の参究状態と言われるのでしょうか。意根の念には言語や音声の相がなく、言葉が形作られる前の状態こそが、意根の思念そのものだからです。次の段階で言語や音声が現れ意識に落ちれば、もはや話頭参究ではなく、話尾を念じる意識の働きとなります。全ての法において、常に意根の思念が先行し、意識の思念が続きます。意識の思念も再び意根の思念に転換し得ますが、意根の思念を観察し把握することは極めて困難です。

覚醒時の様々な状態において、意識と意根の知覚と思念が共存していますが、その作用の強さは状況によって異なります。意根を甲、意識を乙に例えるなら、私たちの知覚は乙の知覚です。乙が甲の心境を理解するためには、証悟後の道種智を修得する必要があります。現段階では、意識が意根を観察できるかどうかより、正しい参禅の知見を確立し、前述の工夫を実践することが最優先です。この工夫を修得すれば、今生で悟らなくとも、来世に正しい道を歩み、悟りを得る日は必ず訪れるでしょう。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての法施と共修の功徳を、法界の衆生に回向いたします。世界の平和と戦争の終結を祈願し、全ての災難が消滅するよう願います。各国人民が慈愛をもって協力し、風雨順調で国家安泰であるよう。全ての衆生が因果を深く信じ、殺生を戒め、善縁を結び、仏法を学び、苦を悟り道を修めるよう。悪趣の門を閉ざし涅槃への道を開き、仏教が永く興隆し、三界が極楽浄土となるよう祈念いたします。

——生如法師の開示
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