衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年12月15日    水曜日     第1 回の開示 合計3560回の開示

観行工夫と煩悩断の関係

いかなる法を観行するにしても、証得しようとすれば、観行の工夫を一続きのものにしなければなりません。どのようにして工夫を一続きにするかというと、座禅の静中のうちに修めた工夫を、身体が活動している時にも延長させ、一日中絶え間なく心の念い続けることです。下座した後も観行に覚知があるかどうか、行住坐臥の中で常に観行に覚知があるかどうか、眠りに入る寸前にも観行に覚知があるかどうか、さらには眠った後の夢の中でも観行を継続できるかどうか、あらゆることをする際に常に観行に覚知があるかどうかを注意深く観察しなければなりません。もし観行の工夫が断続的で、心の念いが世俗の法に流れていることに気づいたら、絶えず自らを戒めて注意を観行に向け、途切れたら再び続けるようにし、できる限り工夫を連続させるよう心掛けます。

行住坐臥の中で、全ての心の念いが観行と自らの色身に向けられているか、あるいは大部分の心・主要な心の念いが観行と自らの色身に向けられているならば、そのような定力は非常に優れていると言えます。もし一切時に覚知と正念があるならば、工夫は一続きとなり、そのような定力は未到地定を具足し、我見を断つに十分です。観行と覚知の工夫が一続きとなった時、心の念いが常に自らの色身にあれば、戒を犯す心もなく、悪業を造作する心もなくなり、この時心は清浄となり、煩悩は薄らぎます。故に禅定は煩悩を降伏し断除するのに効果的であると言えます。

見道に至る前に、必ず未到地定を具足しなければなりません。未到地定を具足した時、欲界の粗い五品の煩悩は断除され、この時初果向となり、初果に近づきます。もし未到地定が未だ具足していないか、全く未到地定がないならば、我見を断じて初果を証することはできません。禅定なしに証果できるというのは戯論であり、現実とはなり得ません。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退しますように。各国の人民が団結し助け合い、慈心をもって相対しますように。風雨順調で国泰く民安んじますように。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開きますように。仏教が永く興隆し、正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦となりますように。

——生如法師の開示
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