問:深く信じる所に如来蔵が存在するとの認識は、微細な法執に当たるのでしょうか。如来が形も像も無いことを認めつつも、その形無き相に執着している状態です。或いはこう言う者もいるかもしれません:表現の必要性からこの名称を用いざるを得ないが、実際には名称もなく、「名称無き意象」も存在しないのだ、と。
答:我執と法執に関する問題は、今しばらく考える必要はありません。我執は四果阿羅漢になって初めて断じ得るもので、凡夫が四果に至る道程はまだ遥か遠く、我見を破るだけでも極めて困難な状況です。ましてや法執を破るなどどうしてできましょうか。特に法執は地上の菩薩が徐々に破っていくもので、明心も証果もない者が法執を破ることは根本的に不可能です。凡夫が地上菩薩に至るまでの距離はほぼ一阿僧祇劫の時間を要し、これほど早く法執を破ると論じても何の益もありません。
牢関を破る以前は、如来蔵に執着するのは正常であり、むしろ当然です。畢竟、如来蔵に執着することは五陰に執着するより遥かに清浄ですから、如来蔵に執着する方が良いのです。如来蔵を証得して初めて、徐々に如来蔵への執着を離れることができます。今まだ如来蔵を証得していない段階では、執着云々を論じることもできず、ただ如来蔵が真実であると認めることができれば、既に非常に素晴らしいことです。如来蔵自体に我性はありませんが、第六・第七識が如来蔵を真実の我と見做すことは、牢関を破る前段階では良い現象であり、正常かつ当然のことです。
回向文:このネットワークプラットフォームにおける全ての法弘めと共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退することを。各国人民が団結協力し、慈心をもって相対しますよう。風雨時節を得て、国泰民安であることを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根増長しますよう。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開きますよう。仏教が永遠に興隆し、正法が永住しますよう。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦となしますよう。
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