いかなる法を観行するにせよ、それを証得しようとするならば、観行の功夫を一続きに連ねなければなりません。どのようにして功夫を一続きに連ねるのでしょうか。それは坐禅の静止状態で修得した功夫を、身体が活動している状態にまで延長し、一日中、絶え間なく心を留め続けることです。下座した後も観行による覚知が持続しているかどうか、自らを注意深く観察してください。歩く・立つ・座る・臥すの全ての動作において観行による覚知があるかどうか。眠りに落ちる寸前でも観行による覚知を保てるかどうか。さらには眠りに入った後の夢の中でも観行を継続できるかどうか。あらゆる行動を取る際に、常に観行による覚知があるかどうか。もし自身の観行功夫が断続的であり、心の念いが世俗の法に頻繁に流れ込んでいることに気づいたならば、絶えず自らに注意を観行に向けるよう促し、途切れたら再び繋ぎ、功夫が連続するよう努めなければなりません。
歩く・立つ・座る・臥すにおいて、心の念いの全てが観行と自身の色身に向けられている、あるいは大部分の念い、主要な念いが観行と自身の色身に向けられているならば、そのような定力は非常に優れていると言えます。もしあらゆる時において、覚知と正念を保つことができれば、功夫は一続きに連なり、そのような定力は未到地定を具足したことになり、我見を断つに十分です。観行と覚知の功夫が一続きに連なった時、心心念念が自身の色身に向けられれば、もはや心で戒を犯すことはなく、心で悪業を造作することもなく、この時心は清浄となり、煩悩は淡薄になります。故に禅定は煩悩を効果的に降伏・断除できると言われるのです。
見道以前には必ず未到地定を具足しなければなりません。未到地定を具足した時、欲界の粗重な五品の煩悩は断除され、この時は初果に向かう段階(初果向)となり、初果は目前です。もし未到地定がまだ具足していない、あるいは全く未到地定がないのであれば、我見を断って初果を証得しようなどと考えてはなりません。禅定がない状態で聖果を証得できるというのは戯論であり、現実にはなり得ません。
回向文:当ネットワークプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和と戦争の終結を祈願します。烽火が起こらず、干戈が永遠に止みますように。一切の災害がことごとく消退しますように。各国の人民が団結し助け合い、慈悲の心をもって互いに接しますように。風雨順調で五穀豊穣、国家安泰で民衆平安となりますように。一切衆生が因果を深く信じ、慈悲の心をもって殺生をせず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏法を学んで善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開きますように。仏教が永く興隆し、正法が永く住しますように。三界の火宅を極楽の蓮邦へと変えますように。
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