衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年12月13日    月曜日     第2開示 合計3559開示

凡夫は如来蔵 (tathāgatagarbha) を執すべきか

<h2 style="text-indent: 2em;">問:如来蔵 (tathāgatagarbha) が一つ深く信じられているというのは、これは微細な法執と呼べるのでしょうか?如来は形も像もないと認めながら、それでもこの無形無像のものに執着している、ということです。こう言う人もいるかもしれません:私は表現の必要上、そういう名詞を言わざるを得ないだけで、実は名前もなければ、「名前のないイメージ」も存在しない、と。</h2>

答:我執と法執の問題については、今はしばらく考える必要はありません。我執を断除できるのは四果阿羅漢になってからであり、凡夫は四果からまだ遠く離れています。我見を破ることさえ困難なのに、まして我執を破るなどと、どうして言えましょうか。特に法執は、登地した菩薩になって初めて少しずつ破除できるものであり、明心も証果もなければ、法執はそもそも破れません。凡夫が登地の菩薩から離れている距離は、ほぼ一つの無量劫の時間に相当します。こんな早い段階で法執を破ることを論じても、何の役にも立ちません。

牢関を破る前には、如来蔵に執着するのは正常なことであり、あるべきことでもあります。何しろ如来蔵への執着は、五陰への執着よりはるかに清浄 (viśuddha/pariśuddha) なのですから、ならばいっそ如来蔵に執着した方がましです。如来蔵を証得した後になって初めて、少しずつ如来蔵への執着を捨てていくことができるのです。今はまだ如来蔵を証得していないのですから、執着などと言うまでのこともなく、ただ如来蔵を真実と認めることができれば、それだけで非常に素晴らしいことです。如来蔵そのものには我性はありませんが、第六識と第七識が如来蔵を真の我と見なすのは、牢関を破る前には、いずれも良い現象であり、正常であり、あるべきことなのです。

——生如法師の開示
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