衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2021年12月03日    金曜日     第1開示 合計3551開示

定果色は意根の現量による実証境界である

白雪香の白骨観体験の共有:朝(目を閉じて)座禅を組んでいると、右足のくるぶしの骨がかゆくなり、次に(ずっと目を閉じたまま)突然(目を閉じた状態で見える)くるぶしの骨のかゆい部分が爛れているのが見えた。さらに観想で指で一撫ですると、全身の肉が落ち、骨格だけが残った。しかし、その骨には黒ずんだ血の筋や肉の筋がかかっており、他の人が白骨観で観行して現れるような真っ白な骨ではなかった。

私は思った:これはまさに観行の中間段階の一つではないか?まず皮が落ち、次に肉が落ち、その次に筋が落ち、その後で骨が現れる。観行とその結果には次第があるので、何もない状態からいきなり白骨を観照することはできず、修行は一歩一歩進んでいくものだ。今この状態は中間的な観行の段階であり、今後さらに深い観行の境界が現れ、最終的に白骨に至るのだろう。

評:以上の白骨観の境界は、すべて禅定の中で現れた境界であり、「定果色」と呼ばれる。禅定によって引き起こされた境界はすべて現量境界であり、実証の境界であって、意識による想像や思惟の作用は一切介在せず、すべて意根の現量観行の境界である。意根がどのような思想・観念を持ち、どの法を認めるかによって、そのまま境界が現れる。偽ることはできず、作主識(第七末那識)はこのように威厳と勢力を持つものなのである。禅定の中で、くるぶしの骨の肉が爛れ落ち、骨に血の筋や肉の筋がかかっているという現象は、自らの意志で現れるものではなく、意根の現量による認知の境界であり、意識の想像で作り出すことはできない。

もし白骨観が意識の思惟や憶測に頼るならば、意識が身体はこうあるべきだと感じても、身体は言うことを聞かず、決してそのようにはならない。なぜなら、意識には勢力がなく、主導権を持たないからである。定果色は意根によって起こり、決して意識によって起こることはない。しかし、意識は白骨観の初期段階において、意根を観行の境界へと導き入れる役割を果たし、意根に対して導きと薫染の作用を持つ。したがって、意識の功績もまた大きいと言える。

以上の観行は確かに観行の一過程であり、白骨観はまだ完成していない。骨が十分に清浄ではなく、色もまだ白く清らかでないのは、観行者にまだ消えていない業障があり、心がまだ純粋ではなく、禅定の力がまだ十分に強くないことを示している。さらに深い観行を進め、白骨観を完成させ、我見を断ち切り、法眼浄を得る必要がある。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳をもって、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和、戦争のないこと、烽火の起こらないこと、干戈が永遠に止むことを祈願します。あらゆる災難がことごとく消退しますように。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって互いに接しますように。風雨順調で、国が泰(やす)く民が安(やす)んじますように。一切衆生が因果を深く信じ、慈しみの心で殺生をしないこと。善き縁を広く結び、善き業を広く修めること。仏を信じ仏を学び、善根を増長すること。苦を知り集(しゅう)を断ち、滅(めつ)を慕い道を修めること。悪趣の門を閉ざし、涅槃の路を開くことができますように。仏教が永遠に興隆し、正法が永遠に住んであることを祈願します。三界の火宅を変じて、極楽の蓮邦と成らしめんことを!

——生如法師の開示
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