衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年11月30日    火曜日     第1 回の開示 合計3550回の開示

いかにして自心の貪の習を内観するか

白雪香の観行体験

心が定まっている時には、自身に煩悩が生じていることに気付きます。これは習気の種子が現前したものです。この習気を破るための体験として、例えば数珠などの装飾品を見て突然愛着が生じ、占有欲が湧き上がり、手に取って撫で回すことがあります。その時「これは貪欲だ」と覚知し、さらに分析を続けます。数珠は単なる木片に過ぎず、機械や手作業で磨かれ、塗料を塗られただけのもので、他に特別な価値はありません。同様にネックレス、腕輪、ペンダントなどの物品を観察しても同じ結論に至ります。このように細心に観行を重ねることで、数珠などへの執着の種子は破壊され、再び生じなくなります。こうして心は次第に清浄になり、煩悩が反復して生じることがなくなり、習気の現前と闘う必要もなくなり、煩悩がかえって増大することもありません。戒律は重要で、心を静め、より細やかにし、心の水を澄ませ、思考を明晰にします。

評:このような観行は素晴らしいですが、さらに優れた観行とは何でしょうか。それは心を観ることであり、心が境界に向かい、物質に貪欲と占有欲を生じさせることです。なぜ数珠などの物品を好むのでしょうか。数珠自体に吸引力があるのではなく、外物に何か過失があるかのように錯覚していますが、実際には外物は四大元素の物質に過ぎず、過失はありません。あなたを引き付ける力はないのです。それなのになぜ引き付けられるのでしょうか。結局は自心が迷妄に陥っているからです。どのように迷妄しているのか。どうすれば迷妄しないのか。外物を好むのは、外物が自己を飾り美化できると考えるからか、あるいは「私」という存在があるから好きになり、物品が貪欲を満たし、そこからある種の覚受と満足感を得られるからです。覚受に執着するから貪欲が生じるのです。

多くの場合、人はただ覚受を追求し、快適さだけを求めます。その覚受が必要か、過失があるか、障害となるか、価値があるかは考慮しません。これが迷妄です。世間に生きる心は無明に満ち、盲目に習慣に従い、感覚に流され、反観する力もなく、習慣に抵抗せず、流されるままです。自らの様々な覚受を観察し、それらにどのような実質的意味があるかを観行することがより究極的です。観じ続けると、全ての覚受に実質的意味がないことが分かり、覚受を放下すれば世界は広く、貪欲が消え、心は安楽自在と解脱を得ます。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての法施と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、紛争が生じず、武器が永久に休むよう。あらゆる災害が消滅しますように。各国国民が団結し互助い、慈悲の心をもって接しますように。風雨順調で国泰民安となりますように。全ての衆生が因果を深く信じ、慈悲をもって殺生を断ち、善縁を広く結び、善業を修め、仏法を信じ学び、善根を成長させますように。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の道を開きますように。仏教が永く興隆し、正法が永住しますように。三界の火宅を極楽の蓮邦に変えますように。

——生如法師の開示
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