衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年11月29日    月曜日     第1 回の開示 合計3549回の開示

現量の実証とは何か

青空の観行日記

座禅二百三十日目 呼吸観

今朝座禅で呼吸を観じる。数度呼吸するうちに息が滑らかになり、胸腹に温もりが広がり気脈の巡りが明瞭に感知される。気流が両足の裏に達し、会陰穴が開く。腰に温かい流れが入り込む。呼吸を深めるにつれ圧力が増し、顎先に微かな痺れを覚えるも、先日より明らかに軽減。右胸・右肋骨部に張り詰めた閉塞感が腋下へ放射し、さらに右肩甲骨へと伸び、喉の右側を通って右下唇と連なり、かすかに右耳元へ通じる。各点が呼吸毎に相互に牽引し合うのを感じる。左腋下に微かな膨張感あるも他に異常なし。呼吸観を続けるうち、右腋下を中心とする経路の閉塞感が次第に快適な温感に変わり、後肩へと広がる。

全身の覚受を観じた後、意識を鼻先に集中し出入息を観察。鼻腔を通る気流の摩擦音に耳を澄まし、咽喉を過ぎる気流の覚受を細かに追う。次第に脳内の変化を感知:出入息に連動して脳内に疏通する快適な軽やかさが生じ、両肩と腋下に涼やかな清涼感が広がる。鼻部の気流に加え、首の前後左右を囲む気流を感知。胸腔が徐々に開き、皮膚の呼吸参加領域が拡大。体熱が増し全身の快適感が高まる。右耳が鼻と脳と通じそうな予感あるも、座禅終了時までに完全には通じず。

数日前の座禅では顎・下唇・舌の痺れと喉の締め付けが激しく、後半は法義を思惟することで定力を強化し、閉塞状態を速やかに超越した。主に「身は無常、色は無我」を観じ、やがて「無我」を中心に思惟。大まかに思考した後、意識を空ずると定力が著しく増強されるのを体感:呼吸が深まり、閉塞部位が緩和され、身体の快適感が増す。

ある日の座禅後半、法義を思惟した後で呼吸を観じると、もはや身体を感じず、ただ幾筋もの気流が交錯するのみ。吸気で大いなる気流が融合し、呼気で一筋が離れ去る。

今は微かに意根の現量観察の趣きを感じる。

評:観察がさらに細やかになれば、色身が気流で織り成された幻の網であると知覚できる。やがて気流さえも実在せず、色身はさらに虚妄であると悟る。このように説く時、諸君は「確かにその通り」と納得するかもしれない。しかしどれほど合点がいっても、それは現量の知覚でも実証でもない。では現量の実証とは如何なるものか。

現量の実証とは青空の如き眼前の観察である。今この色身が確かに如是であり、この感知が現に如是であることを、法が今まさに運行していることを、ありのままに観じ得る時、それが現量観察・現量実証である。これに非ざるものは全て比量・非量による理想の推測に過ぎない。

故に、経文に随って観に入ると称しつつ、実際にその法が身心に現起せず、眼前に観じ得ないならば、それは随文入観ではなく比量による推量である。今現に生起している事象を観じ得てこそ現量実証と言える。

禅定も観行も知らぬ多くの者が、法を聞き思惟するだけで「法は正しい」「現量を観じた」「我見を断った」と確信する。しかしこれは推論に過ぎず、現量観察ではない。我見を断つには程遠く、あるいは一生、あるいは永劫を要しよう。現量観察と実証の真義を仔細に弁別すべきであり、安易な確信は大妄語を招きかねない。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和と戦争の終熄を祈願し、烽火の絶え干戈の永き休息を希求します。あらゆる災厄の消退を願い、諸国民の相互扶助と慈悲の心による調和を祈念します。風雨順時にして国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈悲をもって殺生を断ち、善縁を広く結び善業を修め、仏法を信学して善根を増長せんことを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開かんことを。仏教の興隆と正法の永住を祈り、三界の火宅を極楽の蓮邦へと転ぜんことを。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

禅宗不立文字とはどういう意味ですか?

次の記事 次の記事

いかにして自心の貪の習を内観するか

ページのトップへ戻る