禅宗はまた宗門とも呼ばれ、仏法の宗とは真実の心である如来蔵である。禅宗とは、禅を参究して如来蔵を証悟する法門である。如来蔵には言葉や文字、音声はないが、参禅の全過程においても言葉や文字、音声を用いることはない。言葉や文字で伝えられるものは真実の心ではないため、参禅においては、法を伝える者も受け取る者も、その言葉や文字、音声は役に立たず、すべての書籍や理論も無意味となる。参禅者は心の中でぶつぶつ呟いたり、くどくど述べたり、うめいたりする必要もなく、対比可能な外的な縁や参照物から切り離される。
こうなると、海闊天空に思いを巡らせ、比量や非量を駆使して情や思惟を解き放つことはできなくなり、意識が働く余地がなくなる。ひたすらに意根の現量による思惟と究明に頼るしかない。苦しく徹夜することもあるが、その成果は豊かであり、内なる意根の潜在能力と智慧を掘り起こすことができる。一度自らの宝蔵を掘り当てれば、以後は自由で豊かな日々を送ることができ、流離い苦しい日々を乞食のように過ごす必要はなくなる。
この時、外の文字も心の中の文字も役に立たず、力を発揮できない。ただ自身の智慧にのみ頼ることで、初めて自らが本来持つ大智慧を開発できるのである。推理も分析も整理も帰納も分解も統合も憶測も想像も比較も教量も理論も知識も学問も、すべて用をなさなくなり、意識は休息し、忙しく働く必要がなくなる。この時、責任ある禅師は「経典を退け、経を読み書物を見ることを禁ず」と告げ、違反者には戒尺で罰すると言うだろう。参究が決定的な段階に達した時、打たれることは絶対に良いことである。言葉や文字が使えなくなっても、打たれることは可能であり、打たれている最中も言葉や文字、思惟は存在しないが、それによって意根の霊感が触発されるのである。
師匠が棒を与える時、もし意識が活発であれば、即座に「これがそうかもしれない」と分析し思惟するだろうが、結果は「違う!」となる。意識がさらに「真と妄が和合している、これは間違いない」と分析推論しても、結果はやはり「違う!」となる。さらに消去法を用いて「これは眼識でも耳識でも鼻識でも身識でもない、意識でも意根でもない、きっと第八識だ」と推論憶測しても、最終的な結果は依然として「違う!」である。意識を動かそうとする限り、どうあっても「違う!」という一字に尽きる。三度「違う!」と言われてもなお悟らなければ、禅師はあなたを禅堂から追い出し、場合によっては禅院や禅寺からも追放するだろう。あなたはまだ道器ではなく、参禅する資格がないからである。もちろん、資格を備えた禅師はむやみに棒で打つことはせず、必ず参禅者の心理状態を見極め、最も適切な機会に棒を与える。これを「当機の一棒」と呼び、一切の塵境と情懐を捨て去り、塵境でも情懐でもないものを現量で識得させるのである。
かつての祖師や大徳は常にこう言った。「盗心が死ななければ悟れない、賊心が死ななければ悟れない」。盗心と賊心とは何を指すのか? 何を盗めば悟れないのか? 誰が盗むのか? 何を盗んだのか? 参禅の際、どうやって盗心を取り除くのか? 参禅における盗心とは、つまり抜け道を探る心、近道をしようとする心であり、他から得た知識や理論を直接持ち込んで実証や親証の代わりにしようとする心である。意根自身が親証したものではないため、意識が抜け道として持ってくることを「盗む」と名付ける。かつて、真実の証量を持つ祖師方の説法を形容して「これらの法は全て自らの心の奥底から取り出したものである」と言われた。これは祖師方の説く法が全て自ら実証したものであり、自身の智慧の結晶であって、意識が他から持ってきた既成の理論知識や、学んだ理論を整理・加工して見せかけだけを変えたものではないという意味である。なぜなら、それは悟りとは見なされず、悟りを遅らせるからである。
自心現量とは何か? 自らの胸襟から取り出したものこそが自心現量と呼ばれる。胸襟や心の奥底とは、深く潜む意根の主人を指す。これとは逆に、意識が苦労せずに理解したもの、戒定慧や三十七道品を修することなく理解したもの、学んだ理論知識や他人の見解と比較・参考・推測して得たものは、ほとんど無償で手に入れたようなものである。意識のこのようなやり方はほとんど盗みに等しく、盗心が死なない限り、意根は思惟参究できず、証道することはできない。意識が大量の法を学んでも、その実質は全て盗みに属する。なぜなら胸襟から出たものではなく、自家のものではなく、全て他からの法、耳から入って口から出る法や、その場で学んでその場で売る法であり、自家の宝蔵ではないからである。
回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳をもって、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が上がらず、干戈が永遠に止み、あらゆる災害がことごとく消退するよう祈ります。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって接し、風雨順調で五穀豊穣、国泰民安であるよう祈ります。一切衆生が因果を深く信じ、慈しみの心で殺生せず、善き縁を広く結び、善き業を広く修め、仏を信じ仏を学び、善根を増長し、苦を知って集を断ち、滅を慕って道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くよう祈ります。仏教が永遠に興隆し、正法が永く住するよう祈願します。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを!
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