衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常開示

2021年12月03日    金曜日     第2 回の開示 合計3552回の開示

意識の心所法と意根の心所法の関係

問:「識の種子が生じて七つの識を形成した後、心所法が伴って運行し、識心に初めて善・悪・無記の三性が生じる。」この心所法は意根に属する心所法でしょうか?意根には倶生と分別の習気があり、前六識は識の種子から生じ形成される時は全て清浄であるべきで、意根の心所法の影響を受けて初めて三性が生じるとの理解は正しいでしょうか? 

答:どの識が運行するかによって、その識に相応する心所法が伴います。意識は意根の調節と指揮を受けるため、意識が運行を始めた後、その自身の心所法が現れる際には必然的に意根の心所法の影響を受け、意根の調節を受けます。意根が善を行おうとすれば、善の心所法が現れた後、必然的に意識の善の心所法を生起させ、意根の指令を完成させます。悪の心所法と無記の心所法が現れる場合も同様です。 

意根が布施をしようとすれば、必然的に六識を指揮して具体的な操作を行わせます。このように六識の生起は意根に協力するためであり、布施という善行を実行するためのものです。従って意識の心所法は生起した時点で必然的に善であり、意根の心所法と一致します。もし意根が布施を望まなければ、布施という善事に関しては意識及び意識の心所法が生起・運行することはありません。つまり識心の心所法が作動する限り三性が現れるため、識心を清浄にするには根源である意根の心所法を清浄にすれば、他の識心も自然に清浄になるのです。 

意根が殺人や放火を望めば、六識を生起させてこの悪事を完成させます。殺人放火の具体的な操作は六識がなければ成し得ず、意根自らは操作できないため、六識が生起すれば心所法は必然的に悪となり、意根の心所法と一致します。従って意根は一切の善・悪・無記の心所法を具足しているからこそ、六識が一切の心所法を具足して身口意の行いを操作できるのです。一部の人が言うように意根が一部の心所法しか持たないのであれば、多くの事柄について意根が主導して造作することができなくなります。意根が主導しない事柄を、六識はどうして操作できましょうか。

意識の心所法は当初意根と一致していますが、思惟を経て事柄が不適切と判断すれば、心所法を変更し、逆に意根を説得し薫染することもできます。意識が意根に背く場合もあります。例えば意根が悪事を望んでも、意識が躊躇して実行せず、考えを改めた後は意根の考えを変えることもできます。これが意識の薫染作用です。意根を変更するのは全て意識の薫染を通じて行われ、ある事柄を経験する度に意識が利害を思考することで、意根は利害を知り、以後の行動に取捨選択が生まれます。ただし意識の薫染速度には遅速があり、これは意識の智慧と善巧によるものです。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火燃えず、干戈永遠に止むことを。一切の災害ことごとく消退せんことを。各国人民が団結協力し、慈心をもって相対し、風雨時に順い、国泰くして民安んぜんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根を增長せんことを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ、涅槃の路を開かんことを。仏教が永く興隆し、正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを祈願いたします。

——生如法師の開示
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