衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年11月06日    土曜日     第2開示 合計3534開示

意根はなぜ文字・言語・音声と相应しないのですか

言語文字と音声は、意識と相応し、意識の機能作用であり、五識と共同で完成される。したがって、この意識は五倶意識であり、五識から離れられず、すなわち身根からも離れられない。言語と音声の出現は、まず意根が意を発し、自らの考えや思想を表現しようと意図し、意根が念を動かすことで、脳波が波動し、意図は中枢神経系を経て身根の対応するシステムあるいは部位に伝達されると、風あるいは気流が丹田で発生する。この気流は上方へ湧き上がり、舌根に到達する過程で音声流が現れ、言語音声を形成する。したがって、話すには気力が必要であり、気力が不足すると声は微弱になるか、あるいは発声できなくなる。言語音声は意識と身識が共同で和合して作用した結果であり、身根の協力が必要であり、この時、舌は身根の一部として機能し、触味塵の機能作用を発揮しない。文字に関しては、文字を書くことや打つことは、意識と身識が和合して作用した結果であり、身根の協力が必要である。独頭意識は心の中の音声を持つことができ、心の中に文字相が現れることもある。独頭意識が内観するとき、自らの心の声や文字相を知ることができる。

以上は六識の口行と意行に属し、さらに身行がある。身行は意識と五識が共同で和合して作用しなければ完成できず、五根の協力が必要である。五根を離れると、身行の作用を完成することはできない。六識の身・口・意行の造作は、意根によって促され、意根の意念の作用である。意根は指揮官のようなものであり、六識は命令の執行者である。指揮官が意を動かすと、脳波が動き、命令が発せられ、全身の神経系が操作される。意根の意は信号あるいは暗号のようなものであり、意識はその一部あるいは大部分を理解できるが、智慧がなければ全てを理解することはできない。六識が命令を執行し、具体的に作用する際に、言語・文字・音声が初めて出現する。これは操作システムの機能作用であり、指揮システムは暗号コードの形式でのみ操作し、五根の協力を必要とせず、意根の意行は完了する。五根の協力がなければ、当然、文字・言語・音声が現れることはない。

独頭意識が色身から離れるとき、五根の協力がなければ、同様に文字・言語・音声は存在せず、話すことも書くこともできない。心念もまたコードや暗号に似たものであるが、意識自身は完全に理解している。理解した後、五根の協力があれば、文字・言語・音声を表現できる。意識が意根の心念を理解すれば、同様に文字・言語・音声を用いて表現できる。したがって、文字・言語・音声は心念の表現道具であり、意根はこのように表現することができず、意識と五識を通じてのみ表現できる。

第八識の暗号コードは、六七識が転識成智した後、相当程度の道種智を具えたときに初めて理解できる。それ以前は、六七識とも解読できず、しかし第八識から与えられる福利待遇を享受できる。享受しながらもそれを自覚せず、自らの努力で得た福利待遇であり、自らが天然に所有すべきものだと思い込む。コードは智慧によって解読される必要があり、智慧がなければ巧を弄して拙を成すことになる。暗号コードは全て比喩であり、心念の形式を説明するためのものであり、実際に暗号コードが存在するわけではない。

真夜中に眠りにつき、六識が滅した状態で、部屋が火事になり、意根が逃げようと意図しても、どうするか? 意根のこの考えは、身根の協力がなく、六識の協力がなければ、いかなる手段を用いても実現できない。したがって、意根の智慧が極めて低劣で何もできないというわけではなく、意根が何かを成そうとするには、使用する道具が必要であるということである。道具がなければ手段がなく、無能者のようになるしかない。

——生如法師の開示
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『いかにして意根を調伏し煩悩を軽減するか』

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意根の伶俐性

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