言語文字と音声は、意識と相応し、意識の機能作用であり、五識と共同で完成される。したがってこの意識は五俱意識であり、五識から離れることができず、すなわち身根からも離れられない。言語と音声の発生は、まず意根が意を発して自らの考えや思想を表現しようとし、意根が念を動かすと脳波が波動し、意図が中枢神経系を通じて身根の対応するシステムあるいは部位に伝達される。すると気(風)あるいは気流が丹田に生じ、この気流が上方に湧き上がり、舌根に到達する過程で音声流が現れ、言語音声が形成される。よって発話には気力が必要であり、気力が不足すれば声は微弱になるか、あるいは発声できなくなる。言語音声は意識と身識が共同で和合して作用するもので、身根の協力が必要であり、この時舌は身根の一部に属し、触味塵の機能作用を発揮しない。文字に関して、筆記やタイピングは意識と身識が和合して作用するもので、身根の協力が必要である。独頭意識は心の中に音声を持ち得、心の中に文字相が現れることもあり、独頭意識が内省する時、自らの心の声と文字相を知覚できる。
以上は六識の口行と意行に属し、さらに身行がある。身行は意識と五識が共同で和合して作用して初めて完成され、五根の協力が必要である。五根を離れれば、身行の作用を完成させることはできない。六識の身口意行の造作は意根によって促され、意根の念慮の作用である。意根は指揮官のような存在であり、六識は命令の執行者である。指揮官が意を動かせば脳波が動き、命令が発せられ、全身の神経系が作動する。意根の意は信号あるいは暗号のようなもので、意識はその一部あるいは大部分を理解できるが、智慧がなければ全てを理解できない。六識が命令を執行し具体的に作用する時、初めて言語文字音声が現れる。これは操作システムの機能作用であり、指揮システムは暗号コードの形式でのみ操作し、五根の協力を必要とせず、意根の意行が完成される。五根の協力がなければ、当然文字言語や音声が現れることはない。
独頭意識が色身から離れる時、五根の協力がなければ同様に文字言語や音声がなく、話すことも書くこともできない。心念もまた暗号コードのようなものだが、意識自身は完全に理解している。理解した後、五根の協力があれば文字言語や音声を表現できる。意識が意根の心念を理解すれば、同様に文字言語や音声で表現できる。よって文字言語や音声は心念の表現手段であり、意根はこのように表現できず、意識と五識を通じてのみ表現できる。
第八識の暗号コードは、六七識が転識得智した後、相当程度の道種智を具えて初めて理解できる。それ以前には、六七識は解読できないが、第八識が与える福利待遇を享受することができる。ただし享受していても気付かず、自らの努力で得た福利待遇と思い込み、自然に所有すべきものだと考える。コードは智慧によって解読される必要があり、智慧がなければ巧を弄して拙を成す。暗号コードは全て比喩であり、心念の形式を説明するためのもので、実際に暗号コードが存在するわけではない。
夜中に就寝して六識が滅した時、屋内で火災が発生し意根が逃げようとするならばどうするか。意根のこの考えは、身根の協力がなく六識の協力がなければ、如何なる手段でも実現できない。故に意根の智慧が低劣で何もできないと言うのではなく、意根が何かを成そうとするには使用する道具が必要であり、道具がなければ方法がなく、あたかも低能児のようになるしかないのである。
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