衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年11月06日    土曜日     第1 回の開示 合計3533回の開示

『いかにして意根を調伏し煩悩を軽減するか』

浄和の観行:最近、私が意根について得た小さな気づきがあります。それは意根の「動作」が層状になっていると感じられたことです。五俱意識が生じる前は主に疑の性質を示し、五俱意識が生じた後に初めて明らかな貪・瞋などの性質が現れます。日常生活では通常、貪・瞋などの習気が生じてからでなければ反省できず、座中ではできる限り五俱意識が生じた初期段階で反省観察します。しかしこの反省して放つ過程では、通常意識を用いてある程度の導きを行わねばならず、反省後に直ちに放下することはできません(これが意根が五蘊の空性を完全に認めていない状態です)。現在の悩みはまさにこの点にあります。 

評:意根の最初の疑いは法に対する不確実性であり、故にまだ決断を下せません。一旦心に確信が生じ疑いがなくなれば、決断が生じます。決断の後、六識は意根の考えに従って造作を始めます。造作の過程で意識は法を観察し、自らに貪・瞋・痴があることに気づきます。この「自ら」とは即ち意根を指します。意根の貪・瞋・痴は六識の造作を通じて表出され、この時独頭意識は観察力あるいは反観力を発揮します。一般的に、独頭意識の覚悟が十分でない場合、身口意行の造作が完了した後に初めて自らの貪・瞋・痴の習気に気づきます。これでは一歩遅いのです。もし独頭意識の覚悟力が強ければ、造作を決意する段階で既に自らに貪・瞋・痴があり、造作しようとしているのが貪・瞋・痴の業行であることに気づき、造作しないと決断します。この決断が意根に伝わると、意根は再び自らの決断を下し、最終結果は意根の覚悟次第となります。 

もし意根の覚悟が不十分で習気が強い場合、依然として自らの決断を固持し、身口意行を改めようとせず、煩悩を現行させ続けます。しかしそうであっても、独頭意識の反観は依然として効果があり、意根に種を植え付けます。この種は意根に、その行為が貪・瞋・痴であり、良くない行いであり、すべきでないことを知らしめます。次に意根が再び煩悩を現行させようとする時、心に躊躇いと障害が生じ、煩悩の勢いは弱まります。意識が繰り返し阻止し諭すことで、意根の心は変化し、煩悩の造作を継続しなくなります。故に修行は一朝一夕で成るものではなく、意識の毎度の反観が全て煩悩を消除する種を植え、これらの種は遅かれ早かれ根を張り芽を出し、花を咲かせ実を結びます。意根が累生累劫にわたり積み重ねた煩悩は山の如く、短時間で変えられるものではありません。忍耐強く薫習を重ねることが必要であり、常に覚悟を保つべきです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根が第八識の見分を我として執着するとは

次の記事 次の記事

意根はなぜ文字・言語・音声と相应しないのですか

ページのトップへ戻る