衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年10月17日    日曜日     第1開示 合計3526開示

心空無病及第帰

六識と七識は形もなく相もなく、見る夢もまた形なく相がない。夢の中の人や事物は、どうして形があり相があるのだろうか?形があり相がある人や事物を、なぜ見ることができるのか?形なく相のない夢が、どのようにして形があり相がある人や事物を載せることができるのか?形なく相のないものと、形があり相があるものとの二者は、相容れないはずである。相容れないのであれば、夢の中にどうして人や事物があり得るのか?

同理として、如来蔵 (tathāgatagarbha) は形なく相がない。七大の種子は形なく相がない。業の種子は形なく相がない。ならば、生まれ出た一切の法は、どうして形があり相があるのだろうか?一切の法は如来蔵の外に出ることはない。形なく相のない如来蔵が、どのようにして形があり相がある一切の法を載せることができるのか?形なく相のない如来蔵が、どのようにして形があり相がある一切の法と相容れることができるのか? それゆえに言う。一切の法相は、眼に落ちれば翳となり、耳に落ちれば病となり、鼻に落ちれば翳病となり、舌に落ちれば病となり、身に落ちれば翳病となり、意に落ちれば病となり、七識は病となる。法を見たその時こそ七識は病んでいるのであり、七識に病がなければ、どこに一切の法があろうか?それゆえに言う。修行とは翳病を取り去ることであり、相を捨て執着を捨てることである。心が空になって初めて病は癒える。心空にして及第の帰を得るのである。 

法相を見たその時ごとに、自らを覚醒させなければならない。これは翳病の見るところである、翳病の見るところである、私は病んでいる、私は病のうちにある、私は病を治さねばならない、私は翳を取り去らねばならない、と。このように続けてゆけば、遅かれ早かれいつの日か、翳病は取り除かれ、もはや相を見ず、正常に戻る。もともと我々はみな正常な人間ではなかったのである。もともと正常と思われていたものはすなわち正常に非ず、是を名付けて正常とす。正常に戻った後の正常もまた正常に非ず、是を名付けて正常とす。正常になった後の解脱は、すなわち解脱に非ず、是を名付けて解脱とす。修行の道筋とはまさにこのようなものであり、このようでないものはすなわち修行に非ず、是を名付けて修行とす、すなわち偽りの修行である。

仏を学び修行するということは、何かを得ることだと思ってはならない。むしろ何かを取り去ることであり、従来の認識とはまさに正反対である。法を得たい、果を得たい、名誉を得たい、大千世界を得たい、美しい生活を得たい、殊勝な正報と依報を得たいと、何を得ようと望むものであっても、それはすべて痴心の妄想であり、有想を滅し、一切の想を空しくすべきである。

——生如法師の開示
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