あらゆる人は無始劫以来、極めて多くの悪業を造作しており、修道を妨げる極めて多くの業障が存在する。障道の主要な業障を除去しなければ、見道することは不可能である。修行が比較的効果を発揮し、ある程度の成果が現れて初めて、業障の一部が消滅し、障道の因縁が除去されるのである。では、どのようにして修行が効果を発揮したと言えるのか。法を学び、善悪の理を明らかにした後、自らに多くの煩悩があり、多くの悪業を造作し、多くの業障が存在することを知り、悔恨の心が生じると、業障は徐々に排出されていく。
業障を排出する経路と方法は数多く存在する。例えば、悪報を受けること、種々の不順が生じること、身体上の疾病、さらには人から欺辱や誹謗を受け、軽蔑や差別を受けることなどである。金剛経に説かれる如く、金剛経を読誦する縁故により、本来この者は前世の悪業によって悪道に堕ちるべきであったが、金剛経を読誦することで業が消滅し、現世ではただ人から軽蔑されるだけで悪業が消滅し、後世に三悪道で報いを受ける必要がなくなるのである。人から軽蔑されることは、人中で苦しみを受けることであり、この果報は三悪道の果報に比べてはるかに軽い。たとえ命を落とすことになっても、三悪道の果報よりはるかに軽い。したがって、学仏者が現世で悪報を受け、人から欺辱や打罵を受けることは、むしろ慶ぶべきことであり、徒に苦しむことのないよう、相手に報復すべきではない。
修行が効果を発揮した後、業を消滅させる方法は数多く、まさに業が消滅していることを示す兆候も多い。例えば、夢中で多くの汚物を吐き出す者、あるいは腐肉のようなもの、黒い血、黄色い膿、あるいは九孔から不浄臭穢が流出する者、あるいは便所の中で大小便に囲まれ、足を踏み入れる余地も身を翻す余地もない者などがいる。これらの汚穢物は心の貪瞋痴をも表している。夢中では、普段自らが受け入れがたい、はなはだしく恥ずかしく想像もできない現象が現れることもあるが、それらは全て業が消滅している兆候である。これは修行によって業が消滅している現象であり、以前衆生の肉を食べたため、心も身体も清浄ではなかったが、理を明らかにした後、心がある程度清浄になると、業が一部消滅し、夢中に業障が消滅している状況が現れるのである。
夢中では、心がある程度清浄になっている状況も現れる。心の染汚は夢中で物質色法を通じて表現され、身体から汚物が出ることは、染汚が出たことを示している。現れる汚物には多くの種類があり、各人の状況には多少の差異がある。身体から嫌な臭いが発せられることも、業が消滅している一つの表れである。これには身体に疾病が現れること、各種の不順、家庭や職場で種々の不如意事が生じること、ごたごたした現象が頻繁に起こることなどが含まれる。
修行が猛力であればあるほど、得られる利益は大きく、速度も速くなる。汚物や染汚の現象が現れる速度は速く、量も多くなり、心の変化も大きくなる。これらの現象がない場合、自らの修行がまだあまり効果を発揮しておらず、意根に触れておらず、したがって業種にも触れていないことを示している。心に明らかな変化がなければ、業障は消滅せず、まだ実際の修行段階に達しておらず、単に理論上で心を用い、理論に興味を持っているだけで、自らをどのように変えるかについてまだ反省したことがないのである。
ある者は心を込めて念仏する時、身体が時として砂を撒く機械のように、非常に多くの黒い汚物が口や身体の各所から排出されることがある。痰、肉、粉末などがそれで、これは以前衆生の肉を食べたことによって現れた業消滅の現象である。ある者は夢中で嘔吐し、胃の中に砂土のようなものがあり吐き出したいのに吐き出せず、吐き出す時には内臓ごと引きずり出されるような感覚があり、一瞬にして特に大きな塊の汚物が排出されることもある。これらは全て過去に造作した貪瞋痴の悪業、身口意の悪業、悪口誹謗などの染汚業である。
これらの現象から、まさに念仏一声で罪が恒河沙ほど消滅することが実感されるべきである。理にかなって修行すれば、多くの罪業が滅除される。今生で我見を断ち明心することができなくとも、ただ業を消滅させるだけで十分に価値がある。多く業を消滅させ、業障が軽微になって初めて見道できるのである。必ずや再び悪業を造作してはならない。悪業を造作することは非常に価値がなく、非常に割に合わない。努力して修行し、煩悩を消滅させることは非常に価値があり、非常に割に合うことなのである。
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