第六識・第七識は形も相も無いが、夢もまた形相を有さない。では、夢の中の人物や事物はどうして形ある相を具えているのか。なぜ形ある相を具えた人事物を見ることができるのか。形相なき夢がどうして形ある相を宿すことができるのか。形相無きものと形相有るものは相容れないはずであるのに、なぜ夢の中に人事物が存在し得るのか。
同様に、如来蔵は形相無く、七大種子も形相無く、業種も形相無し。それらから生じる一切の法はどうして形ある相を具えるのか。一切法は如来蔵を出ず、形相無き如来蔵がどうして形ある一切の法を宿すのか。形相無き如来蔵がどうして形ある一切の法と相容れ得るのか。 故に説く、一切の法相は眼に落ちて翳となり、耳に落ちて病となり、鼻に落ちて翳病となり、舌に落ちて病となり、身に落ちて翳病となり、意に落ちて病となる。七識が病むゆえに法を見、七識に病無き時、どこに一切法あらんや。故に修行とは翳病を去り、相を去り執着を去り、心空じて病初めて癒え、心空じ及第して帰ることをいう。
法相を見る度に自らを覚るべし、これは翳病の見る所、我に病有り、我病むが故に、我は病を治さん、翳を去らん。かくして時至れば、翳病除かれ再び相を見ず、正常に復す。元来我等は正常人にあらず、元来正常と思いしものは即ち正常に非ず、名付けて正常という。正常に復した後の正常もまた正常に非ず、名付けて正常という。正常後の解脱も即ち解脱に非ず、名付けて解脱という。修行の道筋かくの如し、かくの如からざるは即ち修行に非ず、名付けて修行という、仮の修行なり。
仏法を学び修行するとは何かを得ることにあらず、何かを取り除くことなり、従前の認識と正反対なり。法を得んとし、果を得んとし、名誉を得んとし、大千世界を得んとし、美しき生活を得んとし、殊勝なる正報・依報を得んとする。いかなるものを得んとするも、全て痴心妄想なり。有想を滅し、一切の想を空ずべし。
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