捨てる、捨て去った、不要となった、あるいは無くなった。受とは、受想行識の受、感受作用、情緒的な感覚作用を指す。捨受とは、感情が比較的鈍い、あるいは情緒を伴わない状態をいう。 例を挙げれば、食物に対して「おいしい」「まずい」という分別がない。ほとんどの場合、食べられるか食べられないかだけがある。 また例えば、親子兄弟との別離や再会にあたって心に変化が生じない。喜びや興奮、あるいは落胆といった感情を抱かない。さらに例えば、世間の冷暖に接しても、罵られても怒らない、あるいは怒りを仮装する、あるいは一時的に怒る。他人に褒められても得意げになるような感情を持たない。他人の非難や誤解に対しても、軽蔑もせず、我慢もせず、無関心でもない。あたかも虚空を斬る刀の如く、あるいはスポンジに打ち込む拳の如く、他人が如何にしようと何の反応も示さない。
捨受の本質は無我にある。我が捨て、我が受ける。我が無ければ自然と捨てることも受けることもない。捨受の主体が消滅したからである。
評:修行とはこのように実践すべきもので、終日理論を弄ぶことではない。実際の心の働きが理論と全く相反するようではならない。無心の境地に至れば、戒めの有無を論ずる必要はなく、戒めは余分なものとなる。無心の時こそ徳行が最高に達し、無欲の時こそ徳行が最高に達する。徳行が高まって初めて聖人君子となり得る。品行の低い聖人君子は存在しない。
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