衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年09月30日    木曜日     第1開示 合計3517開示

意根の活動と意識の活動の区別

意根が動揺すると、様々な身体的反応が生じます。例えば顔が赤くなる、心拍数が上がる、恥ずかしさを覚える、あるいは青筋が立つ、全身が震えるなどです。これに対し、意識だけが動揺しても身体的反応はほとんどなく、比較的平静です。意根の活動には一定のエネルギー消費を伴いますが、意識の活動は必ずしもエネルギーを消費せず、あるいは消費量が少ない傾向があります。口だけで行動を伴わない人は、意識のみが活動し意根が動いていない状態です。言行不一致の人は意識が言葉を発するが、意根は行動する意志がなく、従って実行しません。欺く習慣を持つ人は、意識を使って演技し、意根は全く動揺していません。従って、人の品性を観察する際には、その言動ではなく行動に注目すべきです。行動は言葉よりも実際的です。 

意識活動がエネルギーを消費する場合、それは全身に関与します。エネルギーは全身に流通しており、身体は同一のエネルギー源を使用しているため、エネルギーは分離されていません。ただし、思考を好む人はまず脳内のエネルギーを消費し、脳のエネルギーが不足すると全身のエネルギーを消費します。脳は全身に影響を与え、脳が疲労すると全身も疲弊し、休息が必要となります。意識活動の中には、意根の活動が全く関与しないわけではなく、多少なりとも意根が関与するためエネルギー消費を伴います。関与が深いほど消費エネルギーも多くなります。深く考えずに表面レベルの意識活動だけを静かに行っている場合、丸一日経っても疲れを感じず、空腹感もあまり感じません。しかし深く思考すると、すぐに疲労を覚え、空腹感も生じやすくなります。そのため私は、意義ある重要な問題以外では、人や物事に関わること、思考を巡らせること、重要でない問題を考察することを極力避けています。 

深く参禅に集中する際も多くのエネルギーを消費しますが、禅定に入り思考を停止している時はエネルギー消費が少なく、むしろ身体は快適さと軽さを感じます。思考を伴わない禅定は比較的省力であり、観行(観察思惟)は脳を酷使します。意識で思惟する場合、集中が浅く少ないため、迅速かつ軽快に進み、広く浅く流れるように言葉を紡ぎ、機知に富んだ表現が可能ですが、内実は浅く、知識水準や記憶力の発揮度合いは示せても、智慧の水準はほとんど反映されません。一方、意根で思考する場合、深く集中するため、心の動きは遅く精神的負担がかかりますが、内実は深遠で意義深く、個人の深層的な智慧が表れます。 

意識と意根の使用差を比喩で説明しましょう。例えば人がぬかるみを歩く場合、泥の深さが浅く靴底程度なら、歩行は比較的速く省力です。しかし泥が足首やふくらはぎ、膝まで達すると、足を引き抜くのが困難で一歩ごとに多大な労力を要し、歩行は極めて遅くなります。意識による思惟は浅い泥の道を歩くことに、意根による思考は深い泥の道を歩くことに相当します。従って、意根で思考する人は常に意根の深層に没入し集中しているため、一念ごと、問題ごとに思考の切り替えが非常に遅く、多くのエネルギー消費を伴い疲労感を覚えます。そのため静寂を好み、外部からの人や物事による妨げを望まない傾向があります。

——生如法師の開示
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