もし末那識が動心すれば、種々の身体的反応が生じます。例えば顔が赤くなり心臓が鼓動する、恥ずかしがる、あるいは青筋が立って全身が震えるなどです。単独の意識が動心しても、身体には反応がなく比較的平静です。末那識の活動は一定のエネルギーを消耗しますが、意識活動は必ずしもエネルギーを消耗せず、あるいは少量しか消耗しません。口だけで実行しない人は、単独の意識が動き、末那識が動かないのです。言行不一致の人は意識で話し、末那識は実行したくないため実行しません。欺く習慣のある人は皆、意識で演技し、末那識は全く動心しません。故に人の品德を観察するには、その言動ではなく行動を見るべきで、実行は言説よりも実質的です。
意識活動がエネルギーを消耗する場合も全身に関わります。エネルギーは全身に流通しており、全身が同一のエネルギーを使用するからです。ただし脳思考を好む人はまず脳内のエネルギーを消耗し、脳のエネルギーが不足すると全身のエネルギーを消耗します。脳が全身を牽引するため、脳が疲労すると全身も疲弊し休息を必要とします。意識活動には完全に末那識が関与しないわけではなく、多少なりとも末那識が関与するためエネルギー消耗が必要で、関与が多ければ消耗も多くなります。もし深く思考せず表面的な意識活動だけを静かに行えば、丸一日かけても疲れを感じず、空腹もあまり感じません。深く思考すればすぐ疲労し空腹も感じやすくなります。故に私は人や事柄に関わりたくなく、心を動かしたくなく、重要でない問題を考えたくないのです。意義ある重要なこと以外は。
深く禅定に参じる時も多くのエネルギーを消耗しますが、思考しない定を修める時はあまりエネルギーを消耗せず、逆に身体が快適で軽快に感じます。思考しない定の修行は比較的省力で、観行思考は脳を酷使します。意識で思考する時は浅く少ない集中力で行うため迅速かつ軽快で、広く浅く流れるように話し、妙語が連なりますが内包は浅く、知識水準や記憶力の発揮レベルが表れ、智慧の水準はほとんど示されません。末那識で思考する時は深く集中するため、識心の運行が緩慢で疲労しますが、内包が深く意義が遠大で、深層の智慧が表れます。
意識と末那識の違いを例えて説明しましょう。人がぬかるみを歩く時、泥が浅く靴底までなら歩くのは速く省力です。もし泥が足首や脹脛や膝まで達すれば、足を引き抜くのが容易でなく一歩毎に苦労し、歩行は極めて緩慢になります。意識思考は浅い泥道を歩くのに相当し、末那識思考は深い泥道を歩くのに相当します。故に末那識で思考する人は常に深層にあり、集中しているため、念頭を転じ問題を変換する毎に思考が緩慢となり、多くのエネルギーを消耗して疲労を感じるため、静寂を好み外界の干渉を望まないのです。
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