万法皆空の「空」には二つの意味がある。一つは小乗の立場から説かれる五蘊世間が全て空であるという意味であり、その次元は比較的浅く、範囲も狭く、一切の法を含まない。もう一つは大乗の立場から説かれる五蘊世間が空であるとともに一切の法も空であるという意味であり、その次元はますます深く、根本的な空、実質的な空、究竟的な意味での空であり、ついには完全徹底的な空に至り、範囲は一切の法を含み、少しの漏れもない。小乗では五蘊世間の苦、空、無常、無我を説くが、この空とは生滅変異して無常なる法を指し、生じるものは必ず変異し、あるいは滅して常住せず久しく留まることができず、生滅のある法は無我性の法である。これが小乗の空である。
大乗の空は如来蔵を証得した後、現量をもって五蘊世間と一切の法がすべて如来蔵によって顕現されたものであることを観察し、故にそれらは全て空であり、これらの法もまた生滅変異して真実ではないと見る。明らかに大乗の空はより根本的でより究竟的、より透徹しており、空の理を明らかにしている。地上菩薩の唯識種智の立場から言えば、眼前に見える物はすべて心が顕現したものであり、変現されて生じた法は幻化された真実でないものである。あたかも魔術師が虚空中から一輪の花を変じ出すように、その花は現象的には存在するが、実質は空であり存在せず、存在は仮の相に過ぎない。大乗は世間の一切の法の空・仮・中を説くが、小乗の空は比較的浅く、仮もなく中もなく、ただ世間法が無常変異して常住しないことを観察するのみで、幻化されたような仮を捉えず、法の実質を把握せず、観察の智慧が浅い。
大乗であれ小乗であれ修行は、いずれも七識五陰の無明を破り、七識五陰に空の智慧を具えさせることである。もし多くの法を薫習し、理論が豊富で数多くの論議文を書くことができても、心が空でなく、学んだ理論をすべて実有の法と見なすならば、それは学問であって修行ではなく、修行に背くものである。
特に大乗を学ぶにあたり、もし深遠で興味深い理論に耽溺し、絶えず知識を吸収し、孜々として探求研究し、整理し帰納し、条理を細かく分析しながら、如来蔵が幻化した一切の法を有る法として執取し、有を執って空じないならば、これらは全て修行ではない。修行とは理論に基づいて空を証得し無明を破り、心行と心性を改めることである。心性は心が空じて初めて改まり、心性が改まって初めて心行もそれに伴って改まり、果報が悪報から善報に変わるのである。学ぶ者は皆、仏法を学ぶ宗旨が心を空じることに達することであると銘記すべきである。「心空及び第帰」――修行は学問ではなく、知識を蓄積し理論を研究することではない。故に理に執って事を廃してはならず、理と事を統一し、理と事が円融無礙でなければならない。
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