もし諸菩薩がただ諸幻を滅し、作用を取らず、独り煩悩を断じ、煩悩断じ尽くして便ち実相を証するならば、この菩薩を名づけて単修禅那と為す。
禅那とは禅定の法門であり、般若を証して実相を参悟することを目標とする。いかにして実相を証得するか。煩悩を断じ尽くせば即ち証得する。煩悩は一切の無明なり。無明の遮障なき時、般若智慧が顕現し、必ず実相を証する。仏は説きたまう「大地の衆生は皆如来の智慧徳相を具す。ただ煩悩妄想の故に証得すること能わず」と。禅那の法門はまさに仏の説に順い、煩悩を断じて実相を証する修行の道を歩む。菩薩の煩悩を断ずる方法は外道や阿羅漢・辟支仏と異なる。菩薩は諸法が幻の如きことを知るが故に、禅定の中で諸幻を滅除し、凡そ幻化したる不実の相は悉く滅除して取着せず。幻法を執取せざるが故に、煩悩は次第に断除され、心が清浄となり、非幻の実相法を証得する。
もちろん煩悩は即時に全て断尽されるものではなく、実相も即時に全て証得されるものではない。次第と段階と過程を要する。煩悩の断除が多くなるほど、実相の証得は深まり、煩悩断尽の時、実相は悉く証得され、仏果に至る。つまり、いかなる程度の実相を証得せんと欲すれば、いかなる程度の煩悩を断じ、いかなる程度の遮障を除くべきか。最も粗重なる煩悩を断ずれば、最も初歩的な般若実相を証得し、根本煩悩を断ずれば、甚深なる般若実相たる真如を証得する。煩悩習気を断ずるに従い、証得する真如はますます深遠となる。故に煩悩を断ぜずしては実相を証すること能わず。もし最も粗重なる煩悩すら毫も断ぜざれば、我見を断つこと能わず、般若実相も証得し得ない。
多く人が「菩薩は煩悩を断ずる要なし」と唱えるが、それは菩薩が般若を証せず実相を証せず、無智の菩薩たらんとするに等しく、真の菩薩にあらず。菩薩の智慧と徳行を具えざるなり。根本煩悩を断じようとせず、なお粗重なる煩悩を有する菩薩は、束縛を受ける凡夫に等しく、菩薩に似て菩薩にあらず。菩薩の風格と器量を欠き、衆生の模範たるべからず。衆生を導いて解脱へ向かわしめ、涅槃の彼岸へ至らしむる能わず。
単修禅那の修行全体の要点は、ただ諸幻を滅し作用を取らざるに在り。幻法は因縁所生にして生滅変異するもの、実質的作用なきが故に、菩薩はこの理を明らかにし、幻法を認取せず執取せず。修行の全過程において、我見を断ずるのみならず我執をも断じ、更に法執をも断じ、実相を証し、真如を証し、無住処涅槃を証する。幻法の作用を取らざるは即ち法執を断ずるなり。法執断じ尽くせば、無明と煩悩も断尽し、仏地の無住処涅槃を証する。外道の修行法には諸幻を滅除する事が含まれず、彼らは諸法が幻の如きことを知らず、五蘊が幻なることをも知らぬ。阿羅漢・辟支仏も般若を修学せざれば諸法が幻の如きことを知らず、故に諸幻法を滅除せず、諸幻法を取らず、法執を断ずる能わず。ただ菩薩のみが法執を断じ、ただ菩薩のみが成仏し、ただ菩薩のみが究竟涅槃を証得し得る。
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