衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年09月24日    金曜日     第2 回の開示 合計3512回の開示

円覚経中三摩鉢提の修習方法

もし諸菩薩がただ幻の如きを観じ、仏力の故に世界を変化させ、種々の作用を備え、菩薩清浄の妙行を行じ、陀羅尼において寂念を失わず、及び諸の静慧を保つならば、この菩薩を単に三摩鉢提を修むると名づく。

第二の修行方法である三摩鉢提は、観慧であり、幻化の観である。観と聞いて即座に意識の観を指すと考えるべからず。ここでは全て意根の観であり、意根の観が成效を現して初めて幻の如き境界が現れる。意識は微塵も力を及ぼさず、意識は毫も主となることができぬ。その力は余りに微小なり。例えば諸仏の身を幻化し、三千大千世界を幻化し、魚米肉山を幻化し、種々の衆生を幻化し、業報の境界を幻化する。これらの幻化境界は、もちろん意根の作意択択によるものであり、如来蔵が福德善業の縁と種子に依り、自心より七大種子を用いて幻化し現出する。如来蔵は魔幻師の作用を起し、諸法これに依って起こり、無より有を生じ、有もまた無なり。

これには意根の作意力が非常に強盛であることを要す。即ち観慧が極めて強く、福德力・禅定力ともに甚だ強く、五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)が堅固であり、これより生ずる五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)が強盛であって、初めて幻観が成就する。一切諸法の成就は大事に意根作意の結果なり。意識の作意及びその力は微弱にして、修めを重ねるほど意根の力が顕著となり、意識の力は相対的に微弱となる。もちろんこれらの成就は全て菩薩の清浄微妙の行であり、意識であれ意根であれ、心地が清浄になった後に初めてかかる成就を得る。染汚の心では成就せず、染汚の心は貪瞋痴の煩悩業を成すのみ。

菩薩は清浄心をもって世界を変幻し、禅定中に世界を幻の如く観じ、空にあらず有にあらず、即ち空即ち有、空有不二、空有倶非、この智慧力をもって初めて世界を変幻し得る。もし世界を空ならざると観ずれば道力を阻害し、世界を空にして有ならざると観ずれば世界は成就せず。世界の空と有を弁証法的に観じて初めて円満に世界を成就す。菩薩が慧観の過程において、心中寂静に仏法の総持綱領を憶念し、この念力をもって行動力・抉択力を生じ、如来蔵がこれに配合して世界一切法が成就する。如来蔵は第一の能変識、意根は第二の能変識、六識は第三の能変識なり。功徳は次第に減弱す。幻観の成就は智慧力の成就なり。而して智慧力は甚深の禅定中に生じ出づ。定なければ慧なく、静かならざれば慧なし。寂静の心は慧力に満ち、力あって初めて果徳を成就す。これが菩薩が単独に観を修める方法、名づけて三摩鉢提という。

この観行においては、意根の念心所法・慧心所法が突出し、定心所法・勝解心所法・欲心所法が内包される。五別境心所法の作用力が非常に強し。故に意根に五別境心所法なしと言うべからず。もし意根に五別境心所法なければ、諸法を成就できず、一法すら成就せず、如来蔵は有りて用いなし。また意根の慧劣と言うべからず。もし意根が常に慧劣ならば、三摩鉢提の観慧は何らの力もなく、幻観を成就できず、大千世界を変幻し、諸法を現出せしめ得ず。もし人が三摩鉢提は菩薩の意識五別境心所法の成就なりと言わば、この人は菩薩を謗るのみならず法をも謗り、罪過少なからず。事実より出発し、如実に意根の功能作用を観待して初めて大智慧が生ず。衆生と諸仏菩薩の意根は皆五別境心所法を有す。異なる所は、諸仏菩薩は意根の五別境心所法を善用し、衆生は悪用するに過ぎぬ。

私が以前に説きし如く、色身を観行し疾病を修除し色身を改変すること、それは最も初歩的な三摩鉢提なり。これも意根の念力と慧力に依り、禅定力を離れず。もちろん意識の観慧と念力もありつつ、最終的には意根の成就に依り、如来蔵が配合するのみ。仏像を観想し念仏し、念仏三昧を修成する方法もまた三摩鉢提の修法なり。禅定が良く、念力大ならんことを要し、慧力深からんことを求む。同時に相応の福德力を具え、福德の支えなければ観行も成就せず。

観無量寿経の十六観と白骨観は、共に三摩鉢提の修法に属す。全て意根の作用力、念力・定力・慧力に依る。意識は補助的役割を有すれども、意識を主とせず。意識が如何に白骨を想像しようとも、白骨観は現前せず。眼前に白骨なければ日を観じ、意識が如何に落日を想像しようとも、落日観は現前せず。故に諸法を成就するに、意識は無力なり。必ず意根を補助して禅定中に諸法を成就せしむべし。

——生如法師の開示
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