もし諸菩薩がただ幻の如きを観じ、仏力の故に世界を変化せしめ、種々の作用を備え、菩薩清浄の妙行を行じ、陀羅尼において寂念を失わず、及び諸々の静慧を保つならば、この菩薩を単に三摩鉢提を修する者と名づく。
第二の修行方法たる三摩鉢提は、観慧すなわち幻化の観である。観といえば即ち意識の観を指すと考えるべからず。ここに説くは全て意根の観なり。意根の観が成效を現じ、初めて幻の如き境界が現前する。意識は毫も力を用い得ず、何となれば意識は毫も主となす能わず、その力極めて微弱なるが故なり。例えば諸仏の身を幻化し、三千大千世界を幻化し、魚米肉山を幻化し、種々の衆生を幻化し、業報の境界を幻化するが如し。これらの幻化境界は、もちろん意根の作意択択により、如来蔵が福德善業の縁と種子に依り、自心より七大種子を用いて幻化し現出するものなり。如来蔵は魔幻師の作用を起し、諸法これに依って起こり、無より有を生じ、有もまた無なり。
これには意根の作意力が非常に強盛であることを要す。即ち観慧が極めて強盛であり、福德力・禅定力ともに非常に強盛でなければならず、五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)が堅固であり、これより生ずる五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)が強盛であって、初めて幻観が成就する。一切の諸法成就の大事は意根作意の結果なり。意識の作意及びその力は微弱にして、修を重ねるほどに意根の力はますます顕著となり、意識の力は相対的にますます微弱となる。もちろんこれらの成就は全て菩薩の清浄微妙の行なり。意識であれ意根であれ、心地が清浄になって後に初めてかかる成就を得る。染汚の心では成就できず、染汚の心は貪瞋痴の煩悩業を成就するのみなり。
菩薩は清浄心をもって世界を幻化し、禅定中に世界を幻の如く観ず。空にあらず有にあらず、即ち空即ち有、空有不二、空有ともに非ず。この智慧力をもって初めて世界を幻化し得るなり。もし世界を空ならずと観ずれば道力を阻害し、世界を空にして有ならずと観ずれば世界は成就せず。世界の空と有を弁証法的に観じて初めて円満に世界を成就す。菩薩は慧観の過程において、心中寂静に仏法の総持綱領を憶念し、この念力をもって行動力・抉択力を生じ、如来蔵がこれに呼応して世界一切法を成就す。如来蔵は第一の能変識、意根は第二の能変識、六識は第三の能変識なり。功徳は次第に減弱す。幻観の成就は智慧力の成就なり。而して智慧力は甚深の禅定中より生ず。定なければ慧なく、静かならざれば慧なし。寂静の心は慧力に満ち、力あって初めて果徳を成就す。これが菩薩が単独に観を修する方法、名づけて三摩鉢提というものなり。
この観行においては、意根の念心所法・慧心所法が顕著に現れ、定心所法・勝解心所法・欲心所法が内包される。五別境心所法の作用力が非常に強盛なり。故に意根に五別境心所法なしと言うべからず。もし意根に五別境心所法なければ、諸法を成就できず、一法さえも成就できず、如来蔵は有りながら用をなさず。また意根の慧劣と言うべからず。もし意根が常に慧劣ならば、三摩鉢提の観慧は何らの力もなく、幻観を成就できず、大千世界を幻化し、諸法を幻化すること能わず。もし人が三摩鉢提は菩薩の意識五別境心所法の成就なりと言わば、この人は菩薩を謗ずるのみならず法をも謗ずるものなり。罪過少なからず。事実に基づき、如実に意根の功能作用を観待して初めて大智慧が生ずるなり。衆生と諸仏菩薩の意根はともに五別境心所法を有す。異なる所は、諸仏菩薩は意根の五別境心所法を善用し、衆生はこれを悪用する点なり。
我が以前に説きし如く、色身を観行し疾病を修除し色身を改変すること、これ最も初歩的な三摩鉢提なり。これもまた意根の念力と慧力に依り、禅定力を離れず。もちろん意識の観慧と念力もあるが、最終的には意根の成就に依り、如来蔵が呼応するのみなり。仏像を観想し念仏し、念仏三昧を修成する方法もまた三摩鉢提の修法なり。禅定が良く、念力大ならんことを求め、慧力深からんことを要す。同時に相応の福德力を必要とす。福德の支えなければ観行も成就せず。
観無量寿経の十六観と白骨観は、ともに三摩鉢提の修法に属す。全て意根の作用力、念力・定力・慧力に依る。意識は補助的作用を有すれども、これを主とせず。意識が如何に白骨を想像しようとも、白骨観は現前せず。眼前に白骨なければ日を観じ、意識が如何に落日を想像しようとも落日観は現前せず。故に諸法を成就するに、意識は無力なり。必ず意根を補助して初めて禅定中に諸法を成就すべし。
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